反社会学講座ブログ

パオロ・マッツァリーノ公式ブログ
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念のためですが

 こんにちは、リアルガチのパオロ・マッツァリーノです。
 なりすましとか、そういうおおげさなもんじゃないですが、たまに、私をどなたか別のかたと誤解してるかたがちらほらといらっしゃるようです。
 私自身はそれによってなんの迷惑も受けてませんし、気にもしていません。ちょっとおもしろがっているところすらあったりします。まちがわれたり誤解されたりなんてことは珍しくもないことだし、それをそんなに恐れてもいません。
 とはいうものの、私とまちがわれたかたが、なにか迷惑されてる可能性もなきにしもあらず、ですので、いちおうあらためて申し上げておきましょう。
 私は、パオロ・マッツァリーノ以外の名義でブログもツイッターもやったことはありません。
 ということで、今後とも当ブログをよろしく。カウンターやアクセス解析みたいな機能はまったく使ってないので、どれだけの人がお読みになってるのかすら、わからないんですけどね。

 ツイッターといえば、ちかごろ、テレビの報道番組やバラエティーの生放送で、画面の下に視聴者のつぶやきがリアルタイムで表示されてることがあります。
 あれ、無視するつもりでいても、どうしても目に入ってくるんです。ちらちらと文字が切り替わって見づらい。画面もゴチャゴチャするし、出演者の話から気がそらされるし、読めば読んだで、どうでもいい意見だったりするし、私はどうも慣れません。
 意見を発信するのは自由だし、視聴者参加型の番組を作るのもけっこう。だけど、参加したくない視聴者にまで、聞きたくもないだれかの意見をムリに読ませるってのは、どうなんですか。
 あのツイッターの表示のオンオフを、視聴者が選べるようにできないもんですかね。つぶやき部分だけデータ放送かなんかで対応するとか、なんか方法はないものでしょうか。テレビ局のみなさん、なんとかご検討を。
[ 2013/02/25 21:32 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

本当は恐い朝ドラ

 こんにちは。ふと気がつくと20年近くカラオケに行ってないパオロ・マッツァリーノです。私とカラオケに行く場合、演歌もしくはムード歌謡しばりにしますので、そのつもりで。
 さて。いま毎週見てるテレビドラマは『泣くな、はらちゃん』と『相棒』だけなんですが、これとはべつに、非常に恐ろしいドラマを発見しました。NHKの朝ドラ『純と愛』です。
 なにが恐ろしいのかというと、ヒロインの努力がことごとく報われないんです。うまくいきかけたとほっとしたのもつかのま、悲劇が訪れ、失意のどん底にたたき落とされることの繰り返し。
 その展開がわざとらしくて朝から疲れる、などとくさす人たちもいます。彼らは苦難が続く展開を見せられることで自分の気が滅入ってると思ってるようだけど、そうかな? 苦難が続く展開なら、数年前の『ゲゲゲの女房』だって同じでした。なのにそのときは朝から疲れるなんて批判の声はあがりませんでした。なぜか。それは、主人公夫婦の努力が最後には報われることがわかってたからです。だから視聴者は夫婦の苦難を気楽に見守ることができたのです。
 ところが『純と愛』はオリジナル脚本で先の展開がわからないので、ヒロインの努力が裏切られるたびに、不安な空気が流れます。そして、このドラマが発信し続ける「努力が報われるとはかぎらない」という裏メッセージが、見るものの神経を逆なでし、疲れさせるのです。
 基本的にエンターテインメント系ドラマのほとんどは、「努力は報われる」というお約束の上に成立しています。そのメッセージを広めて視聴者に夢と希望を与えるのが使命だといっても過言ではありません。
 しかし現実の世の中ではそうじゃないことに、みんな本心では気づいてます。努力は報われないことのほうが多いんです。ゴッホの努力が報われたのは死んでからのこと。でも死んでからいくら認められたって、本人には何の意味もありません。ゴッホにとっては、死ぬまで努力が認められなかったことは、ただただ、恐ろしい悪夢でしかなかったはずです。
 『ゲゲゲ』にだって、仲間のマンガ家が餓死したなんてエピソードがありました。水木さんと同じ状況に置かれたら、精神的に耐えられない人のほうが絶対に多いでしょう。夢の実現を信じて努力するって、口でいうほど生やさしいことではありません。
 ちょっと話が横にそれますけど、映画版の『ゲゲゲの女房』はまさに怪作です。低予算でむかしの街並みなどを再現できなかったからなんだろうけど、いまの調布駅前とかで普通に撮影しちゃってるんです。もちろん設定は昭和なんですよ。なのにくたびれた着物を着た役者が、ビルの建ち並ぶ現在の街を歩いちゃう。大胆すぎて唖然とします。郷里にいるはずのしゅうとめのイメージが、まるで生霊のように普通に台所に立ってしゃべってたりと、わかりづらい演出に腹を立てた人が続出したようですが、私はけっこう愉しめました。映画版はマンガ家として成功する前の時点で終わるんです。そういうわけで、先の見えない不安な生活をよりリアルに描けてたのは映画版でした。朝ドラは健康的すぎたような。
 ゲゲゲから一般論に話を戻しましょう。ドラマは、努力は報われるのだよと教えてくれますが、現実はそうとはかぎらない。でも、ひとは、努力はいつか報われると心のどこかで信じているから、生きていけるというのも事実です。努力は報われないのだと心の底から絶望してしまったひとは、たぶん歩みを止めてしまいます。だから、ファンタジーだろうがフィクションだろうが開き直りだろうが破れかぶれだろうが、努力は報われると信じることは、やっぱり大切なんですね。私だって、まだまだ心のどこかで信じてるから、本も書けるし、赤の他人に注意したり、ほめたりと、世の中と関わる努力もできるんです。
 そう考えると、『純と愛』は展開がわざとらしいのではなく、ある意味、超現実的なドラマなのかもしれません。だからラストがどうなるのか、どうするのか、とても気になるんですよ。まあさすがにハッピーエンドには、なる……のでしょう。同じ遊川脚本の『家政婦のミタ』も『女王の教室』も、一応、希望の持てるラストでしたから。でも、なんか企んでそうな気もするんですよねえ。コワイですねコワイですね、って淀川長治みたいなシメになっちゃいましたけど、今日のところはこのへんで。
[ 2013/02/17 22:19 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

ひと声掛けるべきか、掛けぬべきか

 こんにちは。ちかごろはもっぱら日本酒のパオロ・マッツァリーノです。
 先日JRを利用しましたら、駅のホームでこんな感じのアナウンスが流れてました。
「ただいまJRでは、お身体(からだ)の不自由なかたにひと声掛けよう運動を行っております。お身体の不自由なかたが困ってらしたら、周囲のかたが、どうされましたか、とひと声お掛けになっていただけるよう、ご協力をお願いします」
 困っている人に手を貸すことに、やぶさかではありません。ただ、ふと疑問がよぎりました。身体の不自由な人たちは、本当に声を掛けられることを望んでいるのでしょうか?
 というのは、以前ショッピングセンターで、こんな様子を目撃したからです。私の前、何メートルか先を、脚の不自由な青年が歩いてました。前腕から固定するような金属製の杖を両腕につけているので、両脚もしくは下半身に障害があるのだなとわかります。
 その青年が、下りエスカレーターに乗ろうとしたのを見て、私はえっ、大丈夫なのか、と思ったんです。彼はタイミングをみはからうようにたたずんでます。それこそ、ひと声掛けようとしたところ、たまたま彼のすぐ後ろにいた初老の男性が先に、手伝いましょうか、と声を掛けました。
 しかし彼はそれになにも答えず、無言でエスカレーターに乗りました。降りるときもやはり時間をかけてタイミングを見て自力で降り、歩いて行きました。べつに彼は無謀なチャレンジをしてたわけではなく、これまで何十回、何百回と練習して独力でエスカレーターを利用できる自信があったのでしょう。
 しかし、こう思う人もいるはずです。その青年が自力でエスカレーターに乗れることはわかった。けど、せっかく初老の男性が親切に声を掛けてくれたのだから、けっこうです、ありがとう、くらいのことを、ひとこというべきじゃなかったのか、と。
 それは正論です。私もその場では正直、ちょっと無愛想な態度だなと思いました(しゃべるのも不自由だったら話はべつですが)。でもよくよく考えると、彼の態度も理解できる気がしてきたんです。
 われわれ周囲の他人からすると、そういう場面に遭遇するのはせいぜい年に数回とかしかないわけです。だからそのたびに声を掛けたとしても、いばるほどの親切というわけでもありません。普通の行動です。
 でも彼からしたら、毎回、毎日のことなんですよね。彼はちょっと時間さえかければ、誰の手も借りずにエスカレーターを利用できます。なのに、周囲の人はそれを知るよしもない。エスカレーターの前でタイミングをはかっていると、彼が困って助けを求めているかのように見えてしまう。そのたびに、親切な人に手伝おうかと声をかけられ、けっこうですと答えてたとしたら? あるとき、返事をするのが面倒くさくなってしまったのだとしても、不思議はありません。
 しかも冷静に思い返してみると、彼がエスカレーターの乗り降りにかけた時間はせいぜい10数秒といったところです。周囲の者が彼に手を貸せば、スムーズに乗り降りができ、その10数秒の時間を節約できます。エスカレーター利用者の流れを止めることもありません(彼は片側に寄って乗っていたので、急ぐ人は彼の横をすり抜けていくこともできたはずですが)
 でもその10数秒の効率と引き替えに、彼の自尊心は失われます。誰だって自分の力でできることは自分でしたい。人の世話になどなりたくない。それが自尊心です。少なくともこのケースでは、彼は声を掛けられないほうが、ほっとかれるほうが、うれしいのではなかろうかと。

 といっても、もちろん状況によって事情は変わってきます。なかには、見た目には健康そうなのに、歩いたり立ったりするのが非常にツラいという人もいるわけで、そういう人は手を貸しましょうかと声をかけてほしいと思ってるのかもしれません。だからといって、困ってる演技をするのもヘンな話です。
 周囲の他人には、そのあたりをどう見極めたらいいのか、まったくわかりません。
 となると、「周囲の人のほうから身体の不自由な人に、お困りですかと声を掛けましょう」って運動がそもそもまちがってるのかもしれません。助けを求めるかどうかの主導権は、困っている人に渡せばいい。
 ですから、どちらかというと「お身体の不自由なみなさん、手助けを必要とするときは、遠慮なく、周囲の人に声を掛けてください。図々しいだろうかなんて心配は無用です。頼まれた人は可能な限り手を貸してあげてください。それ以外はほっといてください」という運動のほうがいいんじゃないでしょうか。ひと声掛けよう運動でなく、気軽にひと声掛けてくれ運動。
 身体が不自由かどうかにかかわらず、われわれみんな、他人にちょっとしたことを頼むことすら、異常に忌避しすぎてないですか。年寄りに席を譲りましょうというけれど、年寄りのほうから席を譲ってくれと頼んでも全然かまわないじゃない。それって図々しいことですかね。道徳的にいけないことなんですかね。命令してるわけじゃなく、交渉してるだけです。相手には拒否する権利もあるんだから、あまりにも無礼な要求だったら拒否すればいいだけのこと。
 謙譲の美徳なんて慣習の副作用で、社会全体がコミュニケーション不全に陥ってる気がしてなりません。もっと図々しく、他人と関わってもいいんじゃないの?
[ 2013/02/11 14:30 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

スポーツ至上主義の弊害

 こんにちは、スポーツにはほとんど興味がないパオロ・マッツァリーノです。オリンピックもワールドカップも、まったく見ていない私ですが、唯一、毎年見ているスポーツのテレビ生中継がNFLのスーパーボウルです。今日も熱戦を楽しみました。途中の停電で水を差されましたけど、走るクォーターバックが嫌いな私としては、ケイパニックの猛追から逃げ切ったレイブンズの勝利でよしとします。

 ところで、日本で運動部の体罰がいまだに議論になってるってのは、なんなんでしょうか。日本人はバカなのだと世界に知らしめて、恥をかきたいのですか。
 議論するまでもありません。ダメに決まってるでしょうが、暴力なんだから。犯罪なんだから。ならぬことは、ならぬのです。
 以前にもいいましたけど、ヘリクツと精神論で暴力を正当化しようとする行為は、法治国家と民主主義への挑戦です。それを世界ではテロといいます。体罰をきれいごとのように語る記事を雑誌などに書いてる連中は、テロ支援者として全員投獄すべきです。
 だいたい、殴られてスポーツがうまくなるのなら、ボクサーは全員、世界チャンピオンになってなきゃおかしいでしょ。

 体罰の原因を、勝利至上主義とする論調がありますが、そこを論点にするのは議論の戦法としてはよろしくない。そもそもスポーツというものは、最初から勝ち負けがあることを前提としてるわけです。相手に勝つか負けるか。おのれに勝つか負けるか。あるいはサーフィンみたいな競技なら大自然に勝つか負けるか。初心者であれプロであれ、スポーツの目的はすべて勝つことにあります。勝利至上主義でないスポーツなど存在しないのだと反論されたら、論点がずれていってしまいます。
 批判すべき根本的な問題は、「スポーツ至上主義」と「スポーツ性善説」にこそあるのです。スポーツは特別なものだという考えこそが、スポーツを聖域とし、指導者を聖職者とし、批判を許されないものにしてしまったのですから。ひいては、日本社会では倫理上も法律上も許されていない暴力を、特別な自分たちだけには許されると思い上がってしまったのです。
 まずはアタマを冷やして、「たかがスポーツじゃねえか」「スポーツなんて遊びじゃねえか」「なんでたかがスポーツで殴られなきゃいけないんだ」とみんなが声を上げるところからはじめないといけません。そういうあたりまえのことすら、いえなくなってることが問題なんです。
 スポーツってそんなにエラいもんなのか。なんで保護育成してやらなきゃいけないんだ。なんでスポーツだけ特別扱いされるんだ。スポーツ選手の強化費用とかに国の予算を使うなら、鉄道オタクやアニメオタクも国の予算で強化してやったらどうだ――とスポーツに関心のない人はみんな思ってるんだけど、なんかそういう疑問すら口にするのはタブーみたいな空気があるんです。スポーツを見たら「感動をありがとう!」といわなければいけないようなね。
 私はたまたまアメフトで感動できますが、私のスポーツ中枢は、アメフト見るだけで満腹なんです。それ以外のスポーツは見る気もしません。人それぞれなんですから、どんなスポーツにも感動しない人がいても、べつに異常ではありません。
 東京でオリンピックなんかやらなくたっていいよ、交通規制とかされるし、テロ対策でゴミ箱全部撤去するとかいうふうになるんでしょ、ああ面倒くせー! と、スポーツに興味のない人はみんな思ってます。だけど、スポーツのためにはみんながガマンして協力しないといけないみたいです。なぜなら、スポーツは善だから。スポーツは健全だから。スポーツは素晴らしい、特別なものだから。
 こどもにスポーツをやらせれば、倫理や道徳心を養えるなんてのも、スポーツ至上主義とスポーツ性善説に根ざした幻想です。審判の目の届かないところで卑怯なプレーをしてるスポーツ選手がいることなど、中学生でも知ってますよ。元プロボクサーが恐喝で逮捕されたりとか、元プロ野球選手が脱税してたりするんですから、ホンマにもう。
 こんな批判をすると、スポーツを真剣にやってはいけないのかという反論があがるでしょう。真剣にやるのは全然かまいません。ただ、しょせんスポーツなんて遊びだ、という意識が、アタマのどこかにつねになければいけない。それこそが暴走を止めるストッパーだから。
 パチンコを真剣にやるのだって、全然かまいませんよ。でも、パチンコなんてたかが遊びだという意識を忘れるほどに入れ込みすぎると、炎天下の駐車場に停めたクルマにこどもを放置して死なせてしまうなんてことも起こるんです。
 そういう事故を起こした親に対し、すべてを犠牲にしてパチンコに打ち込むなんて感動した! と誉めないでしょ。なんてバカなヤツだと批判しますよね。スポーツの部活動だってそれと同じです。生徒が死ぬのもいとわないほどスポーツに入れ込む指導者は、熱心でいい先生なんかじゃありません。ただのバカなんです。あるいは、善悪の観念がないサイコパスか。私は後者の可能性も、もっと検討すべきだと思いますね。
[ 2013/02/04 16:08 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告