こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。本日はみなさんに、珠玉の心温まるストーリーをお話ししましょう。
オレ最近、気の合う仲間4人で麻雀やるのにハマってるんです。こないだも行きつけの雀荘に集まりました。客は常連ばっかしで、いつもたばこの煙が充満してる場末の小汚い雀荘なんすけど、かえってそういうところのほうが、懐かしくて落ち着くっていうか。
その日は、約束の時間に20分くらい遅れてAさんがやってきました。待ちくたびれたオレらの前に、Aさんは背中に1歳になる坊やを背負ってあらわれたんです。
「ごめんごめん。急に女房がカゼで熱出して寝込んじゃったもんだからさ。女房と一緒にしといてガキにうつすよりはと思って、連れてきちゃったよ」
打ちたくてウズウズしてたオレたちは、メンツが揃ったのでさっそく始めました。コワモテのAさんが坊やを背負ったまま雀卓に向かってる姿は、妙に笑えました。けど、しばらくすると坊やが泣き出したんです。Aさんは必死に坊やをあやします。
「どうしたどうした。オムツもさっき替えたし、ミルクもあげたばかりだし、さっきまでおとなしかったのに、泣くんじゃないよ……みんな、すまんな、うるさくて」
すると店のオヤジや他の常連客たちが口々にいいました。
「いいってことよ。赤ん坊は泣くのが仕事だ」
「なんでぐずるんだろうな。ジャラジャラうるせえからかな」
「たばこの煙が充満してて苦しいんじゃねえか?」
「いやなに、この程度の煙を小一時間吸ったからって、赤ん坊の健康にただちに悪影響が出ることはねえだろうよ」
オレもいいました。「ウチのオヤジはヘビースモーカーだったから、オレはガキのころからずっとウチで煙を吸いっぱなしだったけど、なんともなってないっすよ」
他の客たちもみんな、赤ちゃんが泣くのをガマンしてくれました。そういうオトナの余裕っていうか? いいっすよね。みんな、がさつで貧乏だけど、いいヤツばっかりだ。
半チャン終わって1時間ほどたったところで、その日はお開きになりました。赤ちゃんはその間ずっと泣きどおしでした。オレは坊やに声を掛けたんです。
「坊や、苦しいのによくがんばったな。エライエライ」
Aさんはニッコリ微笑むと、まだぐずっている坊やを背負ったまま、雀荘をあとにしました。
ハイ拍手~。さあ、あなたのハートには、なにが残りましたか?
え? 悪ふざけもたいがいにしろ? そいつらはみんな人間のクズだ! 親の勝手な都合で赤ちゃんを環境の悪い雀荘に連れて行き、1時間も泣き叫ぶままにしてたなんて、児童虐待だぞ!
奇遇ですね。じつは私もまったく同感です。念のため断っておきますが、いまのお話はすべて、私が作ったフィクションです。
とはいうものの、この話には元ネタが存在します。オリジナルは、つんくさんがツイッターでつぶやいた美談なんです。ええ、あのモー娘。とかのつんくさん。その数行のつぶやきを、私が設定を変えてふくらまさせてもらいました
(私はつんくさんに対してなんの含みもありません。ファンでもアンチでもないとおことわりしておきます)。
もとの話というのは、こういうのです。つんくさんが15年くらい前に飛行機に乗ったとき、近くの席でずっと赤ちゃんが泣いていたのだそうです。赤ちゃんの母親がすまなそうにしてたので、つんくさんは降りるとき、「この子はよくがんばった。エライエライ」と声を掛けたところ、母親は涙ぐんだという思い出話。
でも私には、それを美談だと単純に受け取ることはできません。私が抱いた違和感をみなさんにわかっていただくために、わかりやすくふくらませたのが、さっきのお話です。
そもそもなんでつんくさんがそんな話をつぶやいたのかというと、先日ネットで起こった論争への反応だったのです。さかもと未明さんというマンガ家、なんですかね? 私、よく知らないんですけど、そのかたが国内線飛行機に乗ったとき、近くの席の赤ちゃんがずっと泣いてたのにブチ切れて、親と航空会社に激しく抗議したというコラムを書いたところ、ネットでさかもとさんに対する賛否両論が巻き起こりました。つんくさん、茂木健一郎さん、乙武洋匡さん、やまもといちろうさんといった、ネットでご活躍の識者・文化人のみなさんが、こぞってさかもとさんを批判し、赤ちゃんの親を擁護するコメントを発表したというのが、おおまかなことの次第。
『怒る!日本文化論』という新刊を出した私は、これは格好の練習問題になるかもしれないと、論者たちの意見に目を通したのですが、彼らは揃いも揃って的外れな意見を述べていました。この問題の本質は、クレームやガマンとは無関係なところにあると私は気づいたのです。
たしかにさかもとさんの怒りかたは過剰でヘタクソで理性を欠いてました。批判されてもしかたがない。でも一方、さかもとさんを批判し、泣いていた赤ちゃんの親を擁護した言論人たちの反応は理性的なのでしょうか。いいえ。彼らの意見もまた、表面的なヒューマニズムを振りかざしているだけの感情論にすぎません。
彼らの議論は、泣く赤ちゃんの親vs.さかもとさん、両者のオトナの都合のどちらが優先されるべきかという点だけに終始しています。
ちょっと待ってくださいよ。この問題のいちばんの当事者である赤ちゃんの意見に、なぜだれも耳を傾けようとしないのですか。
赤ちゃんはしゃべれないから意見などいえない? なにいってんの、今回の場合、赤ちゃんは明白な意志表示をしているじゃないですか。飛行機に乗っていた小一時間、ずっと泣き続けてました。耐えられないほどの苦痛を感じていたからですよ。
地上とは気圧や湿度がかなり異なる機内では、オトナだって耳や目が痛くなってツラいことがあります。赤ちゃんが苦しんでいたとしても不思議はありません。その子は「耳が痛い、目が痛いよー、ママー、助けてー、降ろしてよー」と1時間ずっと叫び続けていたという可能性はないのでしょうか。
個人差があるから、何時間飛行機に乗っても平気な赤ちゃんもいます。でもその子は明らかに苦痛だったわけです。だから私の意見はこうです。飛行機に乗せて泣きやまないような赤ちゃんは、物心つくまで二度と飛行機に乗せてはいけない。それをやれば、理由はどうあれ結果的に虐待になるから。
雀荘で遊びたいというオトナの勝手な都合で赤ちゃんを1時間苦痛に晒す行為は虐待だと考える人は多いでしょう。しかし飛行機に赤ちゃんを1時間乗せて苦痛に晒すのはかまわないと多くの人がいう。でもそれはオトナが勝手に決めた価値観です。
赤ちゃんの立場からすれば、理由が遊びだろうと必要な移動だろうと、1時間ものあいだ、泣き叫ぶほどの苦痛を与えられたという事実に変わりはないのです。どちらも虐待ですよ。この場合、理由は行為の結果を正当化しません。赤ん坊からすれば、「よくがんばったね」といわれたところで慰めにもなりません。むしろ「やかましわボケ! ワシ、ずうっと、苦しいいうてたやんけ! なのにきさまらみんな、見て見ぬフリかい!」と毒づきたかったのかもしれません。
もし、理由の如何によっては許されるのだとしましょうか。すると今度は、飛行機を利用した理由が問題になります。今回、泣いてた赤ちゃんの親は、いったいどんな理由で飛行機を利用していたのでしょうか。本当にやむを得ない理由があったのでしょうか。もしその理由が観光旅行だったとしたら、擁護派のみなさんはそれでも親の味方をしますか?
あるいは実家への帰省だったら。ジジババに孫の顔を見せるためなら許される? また人情美談ですか。でもその場合、ジジババが飛行機に乗って孫の元へやってくる選択もあったはずですよね。
もしくは陸路もあるでしょう。その子は飛行機だけでなく、電車でも泣き叫ぶのですか。電車は平気なら、そちらを選ぶべきです。飛行機のほうが早くて安い、なんてのはオトナの経済的価値観をこどもの苦痛より優先させてるだけ。
赤ん坊が泣いてるときの親の態度によっても、周囲の反応はまったくちがってくるはずです。泣きやませようと必死になっていれば同情しますけど、ほったらかしにしてたらどうですか。こどもが泣いてるのに親がとなりでイヤホンつけて音楽聴きながら雑誌読んでいて、それを注意されたら「こどもは泣くのが仕事です」と開き直ったとしても、ガマンするのがオトナの対応なのですか。
長々と書いてきましたが、これでもまだ足りないくらいです。考慮すべき点はたくさんあるのです。個々の事例・事情によって、親を擁護するか叱責するか、反応はまったくちがってくるんです。それをネットの言論人たちが、こどもが泣いてもクレームをつけずにガマンすべきだ、などと単純に一般化してしまってることに、私は強い違和感をおぼえたのです。
怒る人をクレーマーと決めつけ叩き、こどもをもつ親には無条件に味方することで、彼らはおのれの「やさしさ」に満足しているだけなんじゃないですか。そのくせ、赤ちゃん本人の気持ちを汲み取るという、もっとも大事な論点を見失っているのです。
ガマンと無関心がすべてを解決するわけではありません。ときには、積極的に他人に関わる、他人の事情に首をつっこむおせっかいも必要なんですよ。事情を知らずに決めつけでキレるくらいなら、関わってウザいと嫌われるほうを、私なら選びます。