こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
約一年間にわたって『新潮45』で連載してきた「むかしはよかったね?」ですが、現在発売中の最新号の掲載分をもちまして最終回となりました。
なお、この連載は書籍化される予定です。雑誌連載を読んだかたも読まなかったかたも、お楽しみに。詳細は決まり次第、ブログとツイッターで告知します。
最終回は「注文の多いブラック商店街」。いまやふれあいと人情味をウリにしている商店街ですが、そのむかしはけっこうエグいこともやってました。今回も過去の史料をひもといて、商店街の意外なルーツや黒歴史など、埋もれた歴史を掘り起こします。
好評発売中の『誰も調べなかった日本文化史』以来、連載や単行本執筆のために、明治から平成までの朝日新聞と読売新聞を読みまくってます。
日本の新聞で、明治時代から現在まで発行され続けていて、しかもすべての記事を検索できるのは、この2紙だけ。貴重な現代史史料なので、朝日と読売、どちらも廃刊になっては困ります。
そんな私の印象からすると、世間でよくいわれる、朝日=左寄り、読売=右寄りというイメージは単純すぎると思います。
朝日は基本的に「マジメ」です。良くも悪くも、マジメ。そのカラーはむかしから一貫してます。マジメが高じると、しばしば上から目線の正義をふりかざすことになるから、鼻につくと批判されるのでしょう。
ご承知のとおり、先日の慰安婦や原発の問題では、完全に一方的に偏った見地から記事を書いて大誤報をやらかしました。でも、むかしからそうだったわけじゃないんですけどね。以前の朝日には、さまざまな問題について両論併記して、バランスをとろうとするマジメさが感じられます。
たとえば1996年の後半、桜井よしこさんが、従軍慰安婦は強制連行されたのではないと発言してさまざまなバッシングを受けはじめたときも、朝日は桜井さんの反論を論壇面にちゃんと掲載してるんです
(97年1月22日付)。いま朝日を目の敵にしている桜井さんは、すでにそのことをお忘れになっちゃったのかもしれませんけど。
読売は、1980年代以前と以降で印象が激変しています。自民党と大企業べったりの保守新聞になったのは80年代以降のことです。70年代までの読売は、タブロイドっぽい雰囲気もあって、やや下世話。庶民の味方路線を突っ走る論調は、ときに朝日よりも過激で、すこぶるおもしろい。
昭和以前の庶民史・文化史を調べる上では、読売のほうが朝日よりもおもしろいネタをたくさん拾えるので、ありがたいですね。
1974年、当時の田中角栄首相が、教育の荒廃をただすため小中学校の徳育教育を強化するといい出しました。朝日がそういうのに反応しそうなのはわかります。実際、社説でもクソマジメに批判してました。
しかし、じつは読売のほうが、社説や記者コラムでもっと過激な批判をしてたんです。
「一元的な価値を国家が示し、それを正統なものとして国民を「教化」しようとする姿勢は、戦後教育ないし、戦後社会の否定に通じる」(5月15日付社説)
ほらね。出典を隠してこれを読ませたら、いまの人たちは、読売の社説だとは絶対に思わないでしょ。
「〔日本人の価値観の変化は〕「君が代」や「教育勅語」への郷愁では対処し切れない。まして、徳目を学校で授業として教える方法は、かつての修身教育の轍を踏む恐れがある。モノと金時代の代表選手、ブルドーザーのイメージの強い首相が道徳を説く。無理をすると、せっかくよくなった口がまたゆがみますよ」(5月14日付よみうり寸評)
痛烈すぎる批判です。この年の1月に首相が顔面神経炎を患ったことまで攻撃の材料に使い、また口がゆがむよ、などとディスるパンク魂。
それがいまや読売は、政府は徳育教育をもっと強化しろ、と社説で焚きつけてるんですから、たいした変わりようです。あの70年代の権力への反骨心は、パンク魂はどこへ行ったんでしょう。反抗的な社員はすべてナベツネさんに粛正されたというウワサは本当なんですかね?