こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
『週刊新潮』の未成年犯罪者実名報道を批判する意見を『新潮45』に寄稿したところ、掲載拒否をされました。
これまで反社会学講座などでやってきた私の流儀を踏襲し、事実に基づき感情論に流されず現実的な提言までしたつもりですが、自社批判が混じると、この程度の毒でもダメなんですねえ。
せっかく書いたのにもったいないので、長文になりますが以下に全文を公開します。「人権」一辺倒の不毛な実名報道議論に一石を投じられれば嬉しいです。
少年犯罪の実名報道は偽善である
テレビのニュースを見ていると、コンビニ強盗の報道がしょっちゅうある気がしませんか。実際、犯罪統計を調べてみたら毎年五〇〇件くらい起きてるので、私の気のせいではなかったようです。
不思議ですよね。いまやコンビニの防犯カメラ設置率は一〇〇パーセントです。そんなことは強盗犯も知ってるはずです。
なのに、なんでコンビニ強盗がなくならないの?
別の日のニュースでは、ある地方自治体が、近年こどもの連れ去りなどの事件が増加しているので犯罪防止のため街中に防犯カメラをたくさん設置する案を検討中と報じていました。
もし私がそこの住民だったら、すぐに役所にねじこみます。防犯カメラなんて税金のムダ遣いだからやめなさい、と。
こういう現実的な提案は、なぜか世論の集中砲火をくらうもの。このひとでなし! こどもが犯罪に巻き込まれてもいいというのか!
いいわけないでしょ。犯罪を許容しろだなんて、私はひとこともいってません。カメラを何台増やしたところで犯罪抑止効果はないからムダだ、と現実的な指摘をしてるだけです。
そもそも、こどもの連れ去り事件はこの一〇年で半減していますし、連れ去り事件の半数は、離婚して親権を失った元親や親族など顔見知りによるものです。不審者・異常者による犯行は、ごくまれな例でしかありません。
さらに重要な事実。防犯カメラというものは、映像をつねに監視している人がいて、はじめて防犯効果を発揮できるんです。映像を監視して、アヤシイ動きを発見したら即、対応することで、未然に犯行を防ぐ――つまり防犯が実現できるのです。
リアルタイムで映像を監視している人がいなければ、それは単なる「記録カメラ」でしかありません。
コンビニ強盗は、カネを奪って逃げられればよし、あとのことなど考えてません。だから「記録カメラ」に撮られることを気にせず犯行に及びます。
以前起きた幼児誘拐事件では、こどもを連れた犯人の姿が街の「記録カメラ」に撮られてました。やはり犯人はカメラの存在を気にしてません。カメラに記録されてもすぐに通報されないから平気なんです。
犯罪者は、カメラに記録されるリスクよりも、犯行で得られる利益を重視するものなんです。
もちろん、記録された映像は犯人を特定する有力な証拠にはなります。ですからカメラは犯人逮捕には役立ちます。
しかし、事件が起きてしまってから犯人を逮捕したところで、それは「防犯」とはいえません。防犯とは名ばかりの記録カメラをいくら増やしたところで、犯罪の抑止力にはならないのです。
*
さて、本題はここからです。防犯カメラの設置や販売をする業者や警備会社は偽善者ではないかと私は疑ってます。
常時監視されていないカメラに犯罪抑止効果はほとんどなく、気休めにすぎないという事実を、彼らは顧客にきちんと説明しているのでしょうか。
防犯カメラには防犯効果などないことを承知の上で売りつけたとしたら、それは詐欺まがいの商売です。
防犯カメラに防犯効果があると心底信じて販売しているのなら、それは「偽善」です。
ある行為が偽善であるかどうかは、結果で決まります。結果がすべてなんです。
もしもあなたが、偽善か善かは動機によって決まると思ってたら、それはまちがい。倫理学のテストならバツ。サンカクもあげられません。
金儲けや売名など不純な動機ではじめたことでも、結果的にだれかの役に立てたのならば、それは「善」なのです。
よかれと思ってやったことでも、結果的にその行為がだれのためにもなっておらず、自己満足で終わっていたら、それは弁解の余地なく「偽善」です。
日本のメディアでもっとも偽善叩きに熱心なのが『週刊新潮』。一九九九年までの主要雑誌記事見出しを調べると、見出しに「偽善」を使っている記事数では、『週刊新潮』が群を抜いて多いんです。
昭和四四年、タクシーの乗車拒否追放運動でマスコミから注目された男にサギの前科があったことを突きとめ偽善と批判した記事を皮切りに、偽善叩きのパイオニアとして世の偽善と戦ってきた庶民の味方、それが『週刊新潮』なのです。
その『週刊新潮』が、川崎で中学生を殺した一八歳少年の実名を報道したことで物議を醸したのは、先刻ご承知のとおり。
この事件が最初というわけじゃありません。『週刊新潮』はこれまでもたびたび、凶悪犯罪を犯した未成年の実名や顔写真を掲載してきました。他にも過去に未成年の実名報道をした雑誌はあります。ただし、『週刊新潮』は昭和三〇年代末から一貫して少年法改正を主張し続けています。その熱意において他誌を一歩も二歩もリードしています。
少年法改正を訴え続けている『週刊新潮』。暴力団の生活保護不正受給をいちはやく糾弾したのも『週刊新潮』。朝日新聞を叩き続ける『週刊新潮』。よのなかの偽善を叩き続けるその編集方針は、よくいえばブレがない。悪くいえばねちねちしつこい。
とまあ、たっぷりゴマをすっておいたところで、あえていわせていただきます。
ずいぶん前から未成年犯罪者の実名報道をしてきたのに、なんで相変わらず少年による凶悪犯罪は起きてるのですか?
*
いまや実名報道は雑誌メディアだけのお家芸ではなくなりました。ネットでも、凶悪事件を起こした少年の個人情報や顔写真は晒されます。ネットも雑誌も記録が永久に残る点では同じですが、ネットはだれもが気軽に情報にアクセスできますから、報道よりもずっと重い制裁だともいえます。
IT社会に生きるいまの少年たちは、凶悪な犯罪に手を染めて捕まれば、そうした制裁を受けるであろうリスクを承知しているはずです。
なのに、なぜ未成年による凶悪犯罪はなくならず、性懲りもなく起きるのでしょう?
その理由は明らかです。未成年犯罪者の実名報道や顔写真を晒すことは、まったく犯罪の抑止力になっていないのです。
戦前の少年法でも未成年の実名報道は規制されてました。でも当時の新聞を読むと、たびたび実名報道がされてます。戦前は実名でなく仮名での報道もかなり混じってるのでややこしいのですが、戦前もいまも状況は基本的に一緒。実名報道が少年犯罪を抑止した気配はまるで感じられません。
長期的には、少年犯罪は減少傾向にあります。しかしそれが実名報道のおかげだとはいえません。それは現行の少年法が立派に機能している証拠だ、と反論されたらどうします?
少年犯罪の実名報道に関しては、「人権」を持ち出して論じるかたが多いのですが、それは無意味な議論です。人権は加害者、被害者、両者の家族、みんなにあるわけで、立場が異なる全員の人権に配慮してみんなが納得する結論なんて出るわけない。
現実主義者の私にとって、評価軸はひとつだけ。実際に効果があるのか、ないのか。
さまざまな統計や史料から判断すると、戦前戦後を通じて、実名報道は少年凶悪犯罪の抑止にまったくといっていいほど無力です。マスコミと善良な市民の自己満足にすぎないのです。なのに、『週刊新潮』は実名報道に効果があるかのように主張し、自分たちの報道を正義だとうたってます。
私が批判するのは、まさにそこ。実際には効果がないのにあると主張して善や正義を気取るのは、それこそ『週刊新潮』が叩き続けてきた「偽善」そのものなのですよ。
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誤解しないでいただきたいのですが、私は実名報道をやめろとはいってません。ただ、いまのやりかたでは結果的に偽善でしかないので、忠告したまでです。
批判だけでなく建設的・具体的な提案もするのが私の流儀。そこで実名報道を偽善でなくする方法をお教えしましょう。
今後も少年犯罪を実名報道するのなら、過去の少年犯罪についても、犯人の実名をすべて調べて報じてください。
いま行われている少年実名報道には、もうひとつ重大な欠陥があります。それは基準があいまいで不公平なところです。実名か匿名か、事件の凶悪さの度合いで決めている現状は、基準があいまいすぎて納得できません。
仮に、今後殺人にかぎって未成年犯も実名報道をする、と決めたとしましょう。それでもまだ不公平感は解消されません。
今後殺人を犯した少年は実名報道という社会的制裁を受けた上に、従来と同じ刑罰も受けることになります。しかし、過去の少年犯罪者――戦後、殺人の罪を犯した累計およそ一万二千人の元少年は、刑罰は受けたけど実名報道による社会的制裁は受けてません。
いまの犯罪少年には従来よりキツい罰を与えておいて、過去の犯罪少年は軽い罰で許すのですか? そんな偏った正義でごまかすのは偽善です。
元少年たちはすでに罪をつぐなったじゃないか? 冗談をいってはいけません。殺された一万二千人の被害者とその遺族の気持ちを汲んでください。彼らは加害者の罪を許したのでしょうか?
少年法の改正や実名報道を望む人たちはなんといってますか。『新潮45』五月号の石井昂さん(新潮社常務取締役)も「故意に「人を殺す」のは取り返しのつかない犯罪なのだ」とおっしゃってます。
そう。取り返しがつかないのです。取り返しがつかないというのは、罪が永遠に消えないことを意味します。罪が消えたら取り返しがついちゃったことになりますから。
ということは、事件から何十年経っても犯人を許せずにいる遺族は、少なからず存在するのでは。
実名報道に正義があるのなら、いまだに罪を許せずにいる被害者遺族のためにも、過去の少年殺人犯の実名を公表すべきではありませんか。
もしもいま、一万二千人の元少年殺人犯の実名が公表されたら、各地で波風が立つでしょうね。少年時代の罪を隠して社会復帰し、社会的地位を築いている人もいるはずです。昭和三〇年代に少年だった殺人犯は現在七〇代。こどもや孫と平穏無事に暮らしているかもしれません。
そんな人たちの過去の罪が実名報道されれば、周囲の見る目も変わります。
「やだ、あのおじいさん、中学生のとき人を殺してたんだって!」
「人は見かけによらないわねぇ……」
彼らのこどもや孫も、殺人者の子孫というレッテルを貼られるかもしれません。
私の提案は悪趣味ですか? でも、これこそが実名報道の目的ではないのですか。実名を記録に残し、だれもが確認できるようにすることで、犯罪者とその子孫が生涯にわたって不利益を被る可能性を残す社会的制裁。
『週刊新潮』は、この罰をいまの少年犯罪者に対して科しているんです。六〇年後に『週刊新潮』のバックナンバーを読む人は、老人になった元少年の真の姿を知ることができ、過去の罪を糾弾することができるのです。
だったら、それを過去の少年犯罪者に適用してもなんら問題はないはずです。ていうか、それをやらなければ公平な報道にならず、「正義」を実現できません。
さあ、みなさんは、偽善と悪趣味、どちらの社会正義を望みますか。
[ 2015/04/28 17:22 ]
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