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児童虐待が急増したのは近年のことなのですか?

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。最近にわかに、児童虐待を防げ! という大合唱が湧き起こってますけど、あなたがた、ついこないだまで、体罰禁止なんてきれいごとだ、とかいってませんでした? それともあれは、斜に構えてよのなかを見てシニカルなことをいう自分に酔ってただけですか?

 ニュースなどを見て気になったのは、近年児童虐待が急増しています、みたいな伝えかたばかりだったこと。それだと絶対、誤解を招きます。
 案の定、「むかしは家に年寄りがいたから児童虐待なんてさせなかった。いまは核家族が進んだから虐待が増えたのだ」などと妄想歴史ファンタジーを垂れ流してるヤツがいました。寝ぼけたこといってんじゃないよ。むかしの年寄りは虐待をしつけとして黙認してたんですよ。
 虐待が近年急増したように見えるのは、警察や行政が積極的に対応するようになったことで、統計数値として表に出てくる数が急増したというだけのことです。道ばたで虐待してれば誰かが通報するだろうけど、ほとんどのケースは家庭という密室で行われるのだから、表に出るのは氷山の一角だろうくらいの予測はつきそうなもんですけどね。家長の権限が大きく、家庭が聖域となっていたむかしのほうが、いまよりはるかに虐待の総数は多かったはずです。

 児童虐待防止法が最初に施行されたのは昭和8年、戦前の話ですよ。むかしは児童虐待がなかったのなら、そんな法律ができるはずがありません。
 児童虐待という言葉は、明治時代から新聞にもしょっちゅう登場してます。「わが子を虐待する鬼親」みたいな記事はべつに珍しくもない。
 戦前の防止法では親ばかりでなく、こどもを労働力としてこき使ってるブラック雇用者もターゲットにしてました。とはいえ、そういう業者にわが子を売り飛ばしたのは親ですからね。親も無関係ではありません。戦前の日本では、親が困窮した場合、こどもを労働力や女郎として売り飛ばすのは当然だという考えのほうが多数派だったことは、アンケート調査などからもあきらかです。
 そんななかでも、大正から昭和初期にかけて、日本にもようやく人道主義、人権主義的な考えが広まりつつあったことが、児童虐待を取り締まる法律を作るきっかけとなったのでしょう。でも一連の流れを新聞記事で追いかけると、もろ手をあげて賛成、って流れではなかった様子がうかがえます。国会での法案の審議や成立までに何年もかかってます。しつけという名の虐待を容認する者たちの抵抗があったのでしょうね。
[ 2019/02/26 21:53 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

児山紀芳さんを偲んで

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。新聞をとってないと訃報に疎くなります。NHK-FMの『ジャズ・トゥナイト』という番組を毎週録音して聴いてるのですが、先週(9日)の放送分を聴いて、長年パーソナリティをつとめてきた児山紀芳さんが亡くなったことを知りました。
 なにしろ私はジャズに興味を持って以来、児山さんの番組をかれこれ25年くらい、毎週聴いてきたのですから、感慨深いものがあります。
 毎週といいましたけど、むかしはたしか、児山さんの担当は隔週でした。本多俊夫さんやジャズミュージシャンのかたがたと交代でやってたはず。
 その辺の記憶をはっきりさせたくてネットを検索したけど出てきません。そこで児山さんが昨年出版した自伝のような本、『ジャズのことばかり考えてきた』を読んでみたら、やはりラジオ番組のことにも触れてました。ネットに何の情報も記録もないのもさびしいので、簡単にまとめておきます。

 著書によると、児山さんはかなり昔からNHK-FMでいろんなジャズ番組の構成などをされてたそうですが、現在も放送中のジャズ専門番組『ジャズ・トゥナイト』のもとになった番組がはじまったのは1989年4月。『ジャズクラブ』の番組名でした。
 2004年で児山さんはいったん降板。2007年に復帰したときに『ジャズ・トゥナイト』と番組名が変更され、そのときから児山さんが毎週担当されるようになったんです。それからすでに12年も経ってたとは。

 リスナーとしての心配は、今後番組がどうなるか。全方位的なジャズの知識があり、来日ミュージシャンをスタジオに招いて英語でインタビューできるジャズ評論家なんて、児山さん以外にもういないでしょ。いたとしても、毎週2時間の番組構成と出演を引き受けてくれるかどうか。ジャズというジャンル自体がいまひとつ人気ないことを考えると、今後は放送時間の短縮や、番組終了の可能性もなきにしもあらず。
 ほとんどの新譜がネットで試聴できるようになった時代に、ラジオで新譜紹介をする意味があるのかという意見にも一理あります。私自身も、最近はもっぱら、ディスクユニオンのジャズ専門店のサイトの新譜情報を頼りにしてますし。
 でも世界的にCDショップって業態も衰退産業のひとつなので、今後どうなることやら。
 『そのおこだわり俺にもくれよ』というマンガで、CDで音楽を聴いてるひとが特殊なマニアとして取りあげられてたことにショックを受けました。えっ、もうそんな時代? 私もおこだわり人だったのか!

 私は、音楽の趣味が細分化された現況を決して悪いこととは思いません。音楽ってのは個人の趣味なのだから、国民全員が、家族全員が、同じ流行歌を聴いてた時代のほうがムリがあったんです。みんながそれぞれ好きなジャンルの音楽を聴けるようになったのはしあわせなことですよ。
 ただ嗜好が細分化するほど、好きなジャンルの情報を得るのが難しくなるし、ミュージシャンがひとつのジャンルだけでは食っていけなくなることも考えられます。
 一億総オタク時代は楽しくもあるけど、悩みも深い。
[ 2019/02/16 21:00 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

祝日の国旗掲揚は伝統ではない

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。日本の伝統文化を捏造する輩があとを絶たないのは困ったものです。歴史にフィクションも思想も要りません。必要なのは事実だけ。本日は、建国記念の日(旧・紀元節)にちなんで、国旗に関する正しい歴史の事実をお伝えしましょう。

 祝日に一般家庭で国旗を掲揚するようになったのは、昭和13年の紀元節からです。それ以前の日本には、一般家庭で国旗を掲揚する習慣も伝統もほとんどありませんでした。やっていたのは、ごく一部の国粋主義者だけ。
 大正9年の読売新聞にその手の読者から投書が寄せられました。天長節の日に警視庁が国旗を掲揚してなかったぞ、けしからん! というもの。記者が警視庁に問い合わせたところ、祝日に国旗を掲揚する慣例はないからやってないのだ、との回答。大正時代には官公庁ですら祝日に国旗を掲揚する習慣はなかったのでした。
 大正12年か13年の話と思われますが、紀元節にその手の人が東京・小石川で調査したところ、2000軒くらいある家のなかで、国旗を掲揚してたのはたったの9軒だったと報告して腹を立ててます。わざわざそんなこと調べるなんて、ずいぶんとヒマだったんですね。
 作家・永井荷風の昭和10年の日記によりますと、近頃祝日に国旗を掲揚しない家にはその手の人たちが来て暴行されるというウワサを聞いてビビったので、急いで三越に日の丸を買いに行ったそうです。荷風のような金持ちでも家に国旗がなかったのだから、貧乏人の家にはなおさら国旗などなかったはずです。
 昭和12年、大正天皇祭のときの調査では、新宿近辺の一般家庭で国旗を掲揚してたのはまだ16パーセントにとどまってました。
 そしてついに昭和13年の紀元節からは、一般家庭でも国旗掲揚をするよう、国が町内会や青年団を通じて積極的にはたらきかけをはじめたことで、7~9割の家庭で国旗を掲揚するようになったのでした。

 もともと日本の家庭にも官公庁にも、祝日に国旗を掲揚する習慣や伝統は存在しなかったのです。ごく一部のその手の人だけがやってたことを戦時体制下で強制されたため、一般家庭でも8年間くらいやってたというのが真相です。なので戦後はめんどくさくなってやめてしまったのですが、それは戦前の伝統に回帰しただけのこと。

 もし、あなたが祝日に自分の家で国旗掲揚をしたければ、どうぞご自由にやってください。ただし、国旗掲揚をするかしないかは個人の自由なので、しないのも自由だということを忘れてはいけません。
 祝日の国旗掲揚を日本の伝統だと偽り押しつけてくる人には、祝日に国旗を掲揚しないのが日本庶民のむかしからの伝統であり、私は伝統を大切にしているのだ、といえばいいのです。
 でもどういうわけか、その手の人に事実を教えると、感謝されるどころか怒り出すことがあるので、気をつけてくださいね。

 根拠となる史料など詳しく知りたいかたは、拙著『歴史の「普通」ってなんですか?』をお読みください。
[ 2019/02/11 08:26 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

売れて見返せという前近代的な考えかた

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。お笑い芸人のキートンさんが、R-1の予選で落ちて、審査に対する不満を漏らしました。彼に対して「売れて見返せ」というコメントがありましたが、それはあまりにも無意味でバカげた助言です。

 むかしから、悔しかったら売れて見返せ、みたいな紋切り型の助言はよく耳にしてきましたけど、そもそも売れて見返すって、なんなの? 具体的にどうやればいいんですか。
 たとえばオードリーがM-1の決勝に出たとき、審査員の島田紳助さんは、オレは、これはない、みたいにすごい冷たい口調で全否定してました。いま、オードリーは売れました。紳助さんは消えました。だったらオードリーがヒルナンデスの生放送中に「紳助、ざまあみろ、バーカ」といえば、見返したことになるのですか? 
 東京03も紳助さんにヒドい仕打ちを受けました。彼らもけっこう売れたのだから、そろそろテレビで「紳助、ざまみろ、バーカ」といってもいい頃だと思うのですが、いかがでしょう?
 仮にキートンさんがブレイクしたら、R-1予選で自分を落とした審査員を実名で批判して芸能界から追放すればよいってことですか?

 もしも彼らがそういうことをしたら、みなさんは「よくやった! ついに売れて見返したな! おめでとう!」と称賛するのですか。そんなわけないですよね。むしろ人間性を疑います。
 問題点は他にもあります。現実には努力しても売れない人がほとんどです。つまり、売れて見返すことができる確率自体がかなり低い。たとえ売れたとしても、時間がかかると、売れたときに見返すべき人がすでに死んでる可能性もあります。その場合どうしましょうかね。墓をぶち壊して見返してやりますか。

 このように、売れて見返すという行為は非現実的で、実行すれば逆に人間性を疑われるリスクすらあります。それを安易に勧める人たちは、ご自分がいかに無意味でバカげた助言をしているのか理解してないのです。

 さらにいわせてもらえば、売れて見返せという助言は、指摘された問題をなかったものとして、論点をすり替え、解決への道を閉ざしてしまう最悪の方法論なのです。
 今回キートンさんは、R-1の予選の審査方法に問題があるのではないか、という異議申立てをしたのです。それは当然の権利を行使しただけのこと。何も間違ってません。
 じつは私も一視聴者として、かねがね疑問を持ってました。M-1やR-1の予選は、誰がどうやって審査しているのだろう? それを知りたくて公式サイトなどを見ても書かれてないので、ブラックボックスです。
 つまり現状では、予選の審査方法に問題がある可能性は否めないのです。なのにそれを検証しようともせず、異議申立てをしたキートンさんに売れて見返せとくだらない説教をして終わらせてしまうとしたら、問題の隠蔽と論点のすり替えです。
 売れてなくても、エラくなくても、問題が存在することに気づいたら、それを指摘して改善を要求する権利はあります。エラくなるまで黙ってシステムに従えってのは、権威至上主義、権威盲従主義です。売れて見返せというひとたちは、民主主義の基本理念をわかってないのでしょうね。
[ 2019/02/04 21:03 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告