こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。『教職研修』1月号掲載の連載記事で、トロッコ問題の問題点を指摘しました。ことの経緯は、ある小中学校で、授業を担当したスクールカウンセラーがいわゆるトロッコ問題を取りあげたところ、親から苦情が来て、学校側が謝罪したというもの。
ネットを見ますと、トロッコ問題そのもののバカバカしさに気づかない論理思考力欠乏症のひとたちが、苦情をいった親をモンペと決めつけたり、謝罪した学校の態度を批判したりと、お粗末な感情論ばかり。そんなひとたちのために、トロッコ問題のどこがヘンなのか、解説します。

まずは、トロッコ問題をご存じないかたのために説明を。手書きのきたない絵ですいません。ブレーキが壊れたトロッコが暴走し、こちらに向かってきます。線路の先には5人の作業員がいて、このままだと轢かれて死にます。あなたが手動でポイントを切り替えればトロッコの進路を変えられますが、そちらの線路の先にも1人の作業員がいて、轢かれて死にます。
要するに、1人殺すのと5人殺すのと、あなたはどちらを選びますかという思考実験、とされているのですが、エグいでしょ。さらに凄いのは、件の小学校でスクールカウンセラーが用意したプリントでは、1人と5人が線路に縛り付けられていると、元の設定よりもサディスティック度・猟奇度がパワーアップしてること。
だれがどんな目的で作業員を線路に縛り付けたんだよ! と、まずここでつっこまなければいけないのに、親や学校を批判してるひとたちは、なんで問題設定のおかしさには気づかないのでしょうか。
こんな悪趣味な問題を考えなさいといわれたら、こどもたちドン引きですよ。学校に苦情をいった親は、むしろ常識的な倫理観の持ち主です。ていうか、私が校長なら、このスクールカウンセラーこそ心を病んでるようなので、カウンセリングを受けなさいと指導しますね。
最初にトロッコ問題の設定を聞いた時点で、なんかヘンじゃね? と思いませんでしたか。私もそうでしたし、それが普通の反応だと思います。
そもそも「あなた」は何者なのか? 「あなた」はたまたまトロッコの手動ポイント切替機のそばにいて、切替機の使いかたも知ってるようです。普通のひとは、とっさにポイント切り替えろといわれても、操作法がわかりませんよね。ポイントなんて切り替えたことねえし。さらに、暴走トロッコが近づいてくることに、なぜか「あなた」だけが気づいてるようですが、どうやって知ったのか。しかもいち早く気づいたくせに、危ないぞ! と作業員に警告するでもなく、ポイントを切り替えるかどうかを悩んでる。「あなた」はバカなのかな。ミステリーファンなら、「あなた」がこの猟奇的状況をセッティングした殺人鬼だと疑うのでは。
こんなつっこみポイント満載のサイコホラーコントをヘンだと思わず、「正解のない問題をこどもたちに考えさせるのは大切なことだ」なんてマジメにいってるひとたちの知性と理性を疑ってしまいます。
この問題に正解がないのは、問題自体に欠陥があるからです。そこに気づけないのは、先生やエラいオトナの出題を茶化すのは失礼だという権威盲従主義の呪縛で思考が曇っているからです。
トロッコ問題が日本でも知られるようになったのは、サンデル教授の白熱教室で取りあげられたからだそうです。私はあの番組を見てないのですが、トロッコ問題を徹底批判している宇佐美寛さんと池田久美子さんの共著『対話の害』によると、番組中でも学生の1人が、設定のおかしさを指摘してるのだそうです。でも痛いところを突かれたサンデルさんは、スルーして講義を続けたとのこと。ずっちいなあ。
問題点1・二択の罠
これは『教職研修』の記事にも書きましたが、トロッコ問題はあらゆる現実的可能性を無視して、1人殺すか5人殺すかの二択を迫ります。普通に考えれば、作業員が線路脇によければいいんじゃないの? って思いますよね。
そもそもトロッコというのは、荷やひとや鉱石などを乗せて、一日何度も往復するものです。定期運行してるトロッコを作業員はどうやってやりすごしていたのですか? 毎回轢かれて死んでたの?
もし、線路脇によけるスペースがない場所での作業なら、見張り係をつけて、トロッコが近づいてきたら安全なところまで退避させるはずです。現実の線路工事でもその方法でやってます。必ず見張り係がいて、電車が接近するとホイッスルなどで作業員に知らせ、みんなで退避してますよ。そんな基本的な安全策をとる知恵もないのかな。
鉄道に詳しいひとによると、この場合、ポイントを中間にすることで、意図的にトロッコを脱線させることも可能なんだとか。
このように、本来なら死者ゼロにする方法がたくさんあるはずなのに、そういう可能性をすべて無視して、1人殺すか5人殺すかしかない設定にして選択を迫るのが、トロッコ問題なんです。やはり異常な設定としか思えません。
だったらこういう悪趣味はどうですか。ポイントで二手に分岐したレールですが、じつはその先はこうなってました。

どちらにポイントを切り替えたとしても、戻ってきたトロッコに轢かれて全員死にます。あなたが選べるのは死の順番だけ。さあ、5人と1人、どちらを先に殺しますか?
あ、私のことを、鬼とか悪魔とかいわないでくださいね。これを考えたのは私ではありません。線路がループになってるパターンも、トロッコ問題を研究した学者たちがすでに検討してるんです。
問題点2・顔のない犠牲者
トロッコ問題に回答を求められると、多くのひとが、1人を殺すほうを選択するそうです。それは、犠牲者の数が少ないほうがましという理由からでしょう。
でも、もし、その1人があなたの大切な家族だったら? そして5人は赤の他人だったら? そうなると、おそらくほとんどのひとが、5人を殺す選択をするはずです。
こんな例ならどうでしょう。縛り付けられてる1人が安倍総理で、5人が菅官房長官、二階幹事長、麻生財務大臣、茂木外務大臣、小泉環境大臣だったらどうします? やっぱり犠牲者の人数が少ないほうを選びますか。
おっと、悪趣味だと私を批判するのはお門違いですよ。だってこれは思考実験なんですから。正解のない問題をこどもに考えさせるのは意味があるんでしょ? 苦情をいわれたくらいで思考実験をやめるのはおかしいんでしょ? だったら私がどんな思考実験をしても問題ありませんよね?
要するにトロッコ問題は、犠牲者が顔のない人間という条件下でのみ、思考実験として成立するんです。匿名のベールで覆われているから、問題設定の悪趣味さが目立たないだけ。ベールが剥がれて犠牲者の顔が見えた途端、客観的な判断ができなくなります。人数でなく好き嫌いで選ぶようになるんです。
現実の世界では、事故や事件や戦争の犠牲者全員に顔があります。ひとりひとりに家族があり、友があり、人生があります。それをすべて無視した非現実的な思考実験に意味があるのですか。意味があると強弁するひとたちは、非情な選択をする自分をカッコイイと思ってる勘違い野郎なんじゃないですか。
これまでトロッコ問題を、長年多くのひとが考えてきたはずですが、それが現実社会を良くしたり楽しくしたりする具体的な発想につながったのでしょうか。有意義なものは何も出てきてませんよね。それこそが、トロッコ問題に思考実験としての価値がないことの証明です。
ここで反論するひとがいるかもしれません。クルマの自動運転システムでは、トロッコ問題を考える必要がある、というもの。もっともらしいご意見ですが、それも間違いですね。トロッコ問題は、クルマの自動運転の安全性向上にはまったく寄与しません。今回話が長くなりましたので、その説明はまた今度。