こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。わはは。古谷さん、いってくれますね。
「「感動の押し付けはたくさんだ」運動嫌いの私が東京五輪に感じる"排除の空気"」 スポーツが嫌いなマイノリティのみなさん、スポーツ性善説にうんざりしてるみなさんは、記事を読んで溜飲を下げてみてはいかがでしょうか。
この際だから私もいわせてもらいましょう。私がなにより不快に思うのは、スポーツ選手やスポーツファンに顕著な現状肯定主義です。彼らはスポーツのシステムやルールがどんなに不条理・不合理であっても、批判しないんです。いまのシステムは偉大な先人や先輩が作ってくださったものだから間違ってない、自分が努力してそれに適応すればいいのだ、システムを批判するのはワガママで無礼な行為である、と考えます。
なので当然、ルールやシステムの不条理や不合理について深く考えるはずもなく、議論からも逃げます。「いろんな意見があるけれど、私は試合に感動できたからそれでいいで~す」みたいなまったく理屈の通らないことをいって議論を避け、問題そのものがなかったかのように振る舞います。
あいにく、私はよのなかの不合理や不条理が大嫌いなんでね、見過ごすことはできません。これまでにさまざまな不条理・不合理を批判しました。だけど私は批判するだけでなく、こうしたらどうだろう、と具体的な改良案・改善案もたくさん提示してきました。
先日ツイッターに書いたのは、3位決定戦の不合理。オリンピックに限らず、3位決定戦ってやる必要ないんじゃないの? 負けたほうは2度負けた上に何も得られない屈辱地獄を味わうのだし、勝ったとて3位の銅メダルじゃそれほど嬉しくなかろう、と。だから準決勝の敗者両方に銅メダルをやれば、それで済む話じゃないかと。
私としてはとても合理的な提案だと思うのですが、やはりスポーツファンからの反論がありました。自分は1試合でも多く見たい、選手は3位でも嬉しいはずだ、などといってますが、それって全部、観客側の意見でしかありませんよね。
日本語でネットをざっと検索するだけでも、テニスやサッカーなどの世界的アスリートが3位決定戦不要論を主張してることがわかります。英語で検索すればもっと見つかるはずです。
彼らがあげる理由はやはり、負ける屈辱と、3位はさほどありがたくないというもの。
でしょうね。むかしから世界レベルの選手たちは、「優勝以外は意味がない」「1位以外はすべて敗者だ」みたいな発言をしてきたじゃないですか。スポーツ嫌いの私でさえ何度も耳にしてますよ。
だいぶ前の五輪で銀メダルを獲った水泳の田島さんは「金がいいですぅ」と冗談めかしてホンネをもらしてました。卓球の伊藤美誠さんは以前のインタビューで「優勝以外はみんな負け」と答えてます。トップクラスの選手ほど、内心、3位では満足してないはずです。
そこで私はもうひとつツイッターで妥協案を提案しました。3位決定戦をやるかどうかを、準決勝で敗退した両選手
(チーム)が話しあって決めるというアイデアです。3位決定戦をやらずに、両者とも銅メダルをもらうか、あるいは、3位決定戦をやって勝ったほうだけが銅メダルをもらうか、選手自身が選ぶのはどうですか、と。
当然これにも疑問の声があがりました。やるやらないで意見が割れたらどうするのか、と。
割れますかね? もし、あなたなら3位決定戦やりますか? 私なら迷うことなく両方銅メダルのほうを選ぶなあ。この選択肢があれば、たぶんほとんどの選手が両方銅メダルを選ぶんじゃないですか。相手が両方銅メダルでいいといってるのに、いや、オレは3位決定戦をやるんだ、と我を張るヤツって、かなり性格悪いですよ。
私がこのアイデアを思いついたのは、走り高跳びの決勝でなかなか決着がつかず、両選手が協議の上、2人とも金メダル、同率1位を選択したという事例をニュースで見たからです。
そういう規定があることにビックリしました。ともに1位で互いの健闘を称えあう。最高のオリンピック精神です。「感動をありがとう!」というなら、これこそが相応しい。
金メダルでさえ、同率1位を選択できるんです。だったら銅メダルなんてなおさら奪い合う価値はありません。両方とも銅メダルを持ち帰って、よし、次回はもっと上を目指すぞ、でいいじゃない。持ち帰ったメダルは、ヘンなおじさんに囓られないよう気をつけてください。