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『政治・社会 ことばの歳時記』外伝 戦争の悲惨さと野坂昭如号泣疑惑

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。今月から時事ドットコムで『政治・社会 ことばの歳時記』という連載をすることになりました。月イチで更新される予定です。

「戦争の悲惨さ」ふりかえる春 【政治・社会 ことばの歳時記】

 科学の分野ではあいまいな解釈を避けるため、用語の定義にすごくこだわる傾向があります。でも政治や社会の分野では、よくわからない用語をあえて使い、都合のいい解釈をしてる感があります。
 私はこれまでも著書で「ふれあい」「亡国」「安全安心」「反日」などの怪しげな言葉にこだわることでその化けの皮を剥がしてきました。今回の連載はその延長線上にあると考えていただければと。
 記事で書き切れなかった補足情報や参考文献を、当ブログでお伝えしていきますので、あわせてお読みいただけたらと思います。

 初回のテーマは「戦争の悲惨さ」。記事にはウクライナ関連の写真がついてますが、これは記事内容とは直接関係なく、編集部の趣味です。私が指定したのは、下のほうにある新聞広告の写真だけです。
 記事でも書いたように、戦争の悲惨さというフレーズが頻繁に使われるようになったのは1970年代からでした。50・60年代にも反戦の主張はたくさんありますが、戦争は怒りとともに語られてることが多い印象を受けます。
 と同時に、戦争のツラい思い出や悲惨さを忘れたいと願ってる人も多かった。50・60年代の沖縄県民聞き取り調査では、戦争の悲惨さを忘れるようにしないとツラすぎて生きていけないとの証言があったことが、『沖縄県史』に書かれてます。
 70年代になると、ようやく生々しい記憶が薄れ、戦争を冷静に振り返れる人が増えました。すると今度は、忘れちゃいけないんじゃないかという想いが強まってきたのでしょう。

 ただ、「戦争の悲惨さ」という紋切り型ですべてをわかったような気になってしまうのは戦争の理解にとってはマイナスだと思うんです。戦争を考えるには被害者としての悲惨さだけでは不十分です。加害者としての非道さや、日露戦争あたりから始まった大衆の浮かれっぷりもきちんと押さえておかないと、戦争観が偏ってしまいます。
 その浮かれっぷりを示す史料として、日露戦争の旅順陥落直後、1905年1月5日付けの新聞広告を引用しました。記事では、私が持っていた朝日新聞のコピーを使いましたが、ほぼ同じ広告が読売にも出ています。

 ちょっとここで、人物の敬称に関する私のルールをお話ししておきます。私は亡くなったかたには敬称をつけません。歴史上の人物と同等にみなすことにしてるからです。
 存命中の人物はどこの国の人であろうと「○○さん」と表記します。例外として、トランプとプーチンは呼び捨てにしてます。私はこいつらを人間と認めてないので。
 死んだら即呼び捨て、というわけでもなく、近年亡くなったけどまだ印象に残ってる人には、しばらくの間は「さん」をつけてます。今回の記事中で取りあげた高畑勲さんもそれに該当します。

 といっても私はジブリに思い入れはなく、映画が地上波で放送されたら1回観てみる、くらいの感じですね。
 だから高畑さんのこともほとんど知らなくて、今回、戦争の悲惨さについて調べているなかで高畑さんの講演録にたどりつき、こんな骨のある人だったのか、と感服しました。
 その講演が行われたのは映画人九条の会の結成集会だったので、聴衆はすべて反戦・平和に熱心な人たちだったはず。そんな人たちを前に、『火垂るの墓』のような戦争の悲惨さを訴える映画は真の反戦たりえないとぶち上げたんだから、みんな驚いたでしょうね。
 泣ける映画ばかりが求められる風潮についても批判の矛先を向けてます。感動は知性と理性を吹き飛ばしてしまう。戦争は感動と熱狂とともに始まるのだから、知性と理性を眠らせないことが真の反戦になる、とヤワな平和主義者がたじろぐような警句を紳士的な口調でたたみ掛けます。シビれますね。
 高畑さんは同じ内容の講演をあちこちでしていたようですが、講演録として残ってるのは、たぶんこのときのものだけだと思います。興味があるかたは、講演録が収録された雑誌を下の参考文献に載せておきますので、ご一読を。かなり入手しづらい雑誌だと思いますが。

 『火垂るの墓』の原作者、野坂昭如が亡くなったとき、高畑さんがジブリの雑誌『熱風』に追悼記事を書いてます。野坂は、物語の舞台となった場所のロケハンにも同行するなど、アニメ製作にとても協力的で、作品製作に関してはスタッフを全面的に信頼して任せてくれたとのこと。
 しかし、完成したアニメを野坂は観なかったんじゃないか、と高畑さんは疑ってます。どうやら野坂は、アニメというはっきりした映像イメージで再現された過去と向き合うのを嫌がって、観るのを避けてたらしいのです。
 えっ? と驚いたかたがいるかもしれません。というのは、じつはネット上には、野坂が『火垂るの墓』の試写会で号泣したというエピソードがムチャクチャ広まってるんです。
 でも試写会に野坂が来ていたのなら、それを高畑さんが知らないってのは、ありえないでしょ。だって原作者ですよ。試写の場に高畑さんがいなかったとしても、スタッフの誰かが、今日、野坂さん試写にいらっしゃいました、と伝えるでしょ普通。ましてや号泣してたのなら、なおさら伝えずにはいられないはずですよ。
 野坂が試写会で号泣したというエピソードをいくら検索しても、その出典を明記してる人は誰もいませんでした。その話、どこで知りましたか? と聞いても誰も答えられないとしたら、都市伝説を疑わなければなりません。
 アニメ恐るべしというコラムを野坂が書いてるのですが、それはアニメ製作がはじまったばかりのときに、スタジオで設定などのラフスケッチを見た段階での感想です。
 これについても高畑さんは鋭い考察をしています。ラフなら自分のアタマの中でほどよくきれいなイメージを作れる。だから野坂はそれを素晴らしいと思えたのだろう。でもアニメ映画は完璧なイメージを突きつけてくるので、観たらやはりツラくなったであろうと。

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今回の参考文献

『読売新聞』1927年9月8日付
      1972年11月5日付
      1972年11月11日付
『沖縄県史 第9巻』琉球政府(1971年刊)
『朝日新聞』1905年1月5日付
高畑勲「講演「戦争とアニメ映画」」(『シネ・フロント』2002年12月号)
高畑勲「60年の平和の大きさ」(『熱風』2013年7月号)
高畑勲「思い出すこと」(『熱風』2016年2月号)
[ 2022/04/28 18:10 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

ドラマ「最終章」問題に新情報

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。先日ツイッターで、「最終章」をやりはじめたのはどのドラマだったのかという話をしたら、ネットに新情報がありました。

 一部のドラマファンの間では以前から、テレビの番組表で最終回の前の回のサブタイトルに「最終章」と表記するやりかたはアリかナシかという議論があります。最終回のようなフリをして視聴率を上げようとするサギじゃねえのかと批判する人がいるんです。

 最終章の表記を初めて使ったドラマは何だったか。これまで何度か耳にしてたのは、2008年4-6月期のフジテレビ『ラスト・フレンズ』と『CHANGE』が最初だとする説でした。
 当時の新聞縮刷版でテレビ欄を調べてみましたら、6月12日放送の『ラスト・フレンズ』のサブタイトルが「最終章・愛と死」となっていたのを確認できました。
 しかし! なんと同日放送のテレビ朝日『7人の女弁護士』も「最終章……DV殺人!!盗撮されたセレブ女」というサブタイトルを使っているではありませんか。
 ちなみに、『CHANGE』は最終章を使ってませんでした。
 だが、しかし! さらにさかのぼると、そのワンクール前、3月11日放送のフジテレビ『あしたの、喜多善男』が「最終章!!絶望をのりこえろ」というサブタイトルを使ってるではないですか。その前のクールではどのドラマも使ってなかったので、私はツイッターに、これが最初だったのではないか、と書いたのです。

 で、その後ツイッターを検索したところ、私のツイートを読んだ人が、新情報を書いてました。なんとなんと、1998年に『ウルトラマンダイナ』がやっていたというんです。
 これは気づかないわぁ。私は昭和世代なので、ウルトラマンも仮面ライダーも平成シリーズは観てません。
 98年8月の新聞を確認したところ、テレビ欄には最終章の表記はありませんでした。でも番組放送時のサブタイトルでは、ラスト3話が「最終章Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」となってたのは間違いないようです。
 ていうか、『ダイナ』はラストのエピソードを3回に分けて最終章としていたのだから、正しい使いかたです。近年のドラマは、ラス前の回だけを最終章と称してるので、サギまがいだといわれるんです。

 『ウルトラマンダイナ』が始めた「最終章」が、10年の空白を経て、ドラマのサブタイトルとしてよみがえり、その後定番となった……。ドラマの制作者は、ダイナでの使用例を知っていたのか、それとも知らずに使ったのか。いや、もしかしたら、2000年代前半のドラマでの使用例があったのか。
 興味深いところではありますが、そこまで掘り下げる気にはなりません。まあ、もし、情報をお持ちのかたがいたら、教えていただけるとうれしいです。
[ 2022/04/19 20:19 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

スポーツに幻想を抱くのをやめませんか

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。7日夕方にNHKの首都圏ニュースを観てたら、小学生の柔道全国大会が廃止になったという話題を詳しく取りあげてました。
 私はこのニュースではじめてその件を知りました。検索してみると、先月発表されて一部で賛否の議論が起きてたみたいですね。スポーツへの興味ゼロの私は、スポーツ関連のニュースをほぼスルーしてるので初耳だったんです。
 コーチや親が過剰な勝利至上主義に走る傾向が強すぎて、こどもたちのためにならないというのが理由とのこと。常識的な判断です。でもそれ、何十年も前からいわれてたことですよ。スポーツ性善説の幻想を広めたい人たちが批判論を押さえ込んでたんです。ようやくフタを開けましたか。

 番組ではこの件について視聴者から寄せられた賛否の声をいくつか紹介してました。批判的な意見の例が、こちら。
「勝利を目指さないで何が競技なの?」
「戦い抜くことから得られる大切なものを奪ってしまうのでは?」

 その意見を投稿したかたに、こちらから逆にうかがいたい。スポーツを戦い抜いて得られる「大切なもの」って、いったいなんなの? 具体的に教えてもらえますか。
 小学生の柔道全国大会を観戦した人たちの証言によると、コーチが審判に罵声を浴びせたり、勝つために危険なズルい技をこどもにやらせたりなんて行為が横行してたそうです。それが「大切なもの」なんですか?
 相撲部出身の理事長とアメフト部出身の理事が大学を恐怖政治で支配して私腹を肥やしてた事件が報じられたのはつい最近ですが、もうお忘れでしょうか。彼らはスポーツから、金と権力の大切さを学んだようです。
 プーチンは柔道から何を得たのでしょう。彼は柔道をやることで、勝利至上主義を学んだようです。祖国を世界一強い国にするためなら、どんな残虐な手段を使ってもかまわん、とにかく勝利を目指せ!
 それは柔道の教えではない? プーチンが間違った教えを勝手に引き出したのだ? だとしても、彼を正しい道に導くだけの力が柔道にはなかったという事実は、否定できませんよね。

 日本で勝利至上主義が根強く残り続ける原因のひとつが、「負けず嫌い」って性格の讃美にあると思います。
 私の著書『思考の憑きもの』で検証してるので、詳しくは読んでいただきたいのですが、負けず嫌いな性格は古来、ねたみなどを伴う悪しき性質とみなされてきました。その感覚は1970、80年代くらいまで続いてたんです。
 昭和の新聞・雑誌には「うちの子が負けず嫌いで困ります」みたいな教育相談が寄せられてますし、回答する教育専門家も、負けず嫌いは直さないと困ったことになりますよ、なんてアドバイスをしてます。
 負けた悔しさをバネに正しい努力をするのならいいのですが、負けず嫌いのこどもは、ズルをしがちです。正々堂々勝負して負けるよりも、ズルをしてでも勝つほうに喜びを見出すようになってしまうんです。
 いまの親たちって、「うちの子、負けず嫌いなんですぅ~」と、それが美徳であるかのように自慢しますよね。いつのまにか、負けず嫌いは良い性格とみなされるようになってしまいました。正しい努力をうながす指導を伴わなければ、負けず嫌いは勝利至上主義に走ってしまいます。

 もういいかげん、スポーツに幻想を抱くのをやめませんか。
 スポーツから学べることはすべて、スポーツ以外からも学べます。努力、友情、正義、協調性、ルール遵守……どれもスポーツ以外の活動からも学べます。
 スポーツからしか学べないことなんて、なにもありません。だいたい、スポーツを長年やってても、何も学んでない人もいるじゃないですか。
 スポーツを熱心にやったからといって人間性が向上するわけではないし、まったくやらなくても人間性が劣化することもありません。
 スポーツにスポーツの楽しさ以上の何かを期待しても、幻想になるだけです。
[ 2022/04/08 17:56 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告