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社会派ドラマの傑作の予感

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。サッカーに1ミリも興味がない私はいつもどおり映画やドラマを観ています。先日、アマゾンプライムビデオに再加入しました。
 今回のお目当てのひとつは『シン・ウルトラマン』。ちゃんとSFマインドみたいなものを感じさせてくれるのがよかったです。ただ、SF的な要素の説明は必要最低限で済ませてしまってるので、SFを囓ってきた人たちは、だいたいああいうことだなと察することができますが、わからない人たちはちょっと置いてけぼりをくらうかもしれません。
 『シン・ゴジラ』ほどのレベルには至らなかったけど、ありきたりなヒーローものとはひと味違う、オトナの鑑賞にも耐える作品にはなってます。

 『シン・ウルトラマン』では捕まって変身できないウルトラマンの救出に単身で乗り込んだり、巨大化させられたり(笑)と大活躍だった長澤まさみさんは、今期のテレビドラマでも活躍中。
 それが『エルピス』。いま私が観続けてる連ドラは『エルピス』と『PICU』の2本です。両方とも女性脚本家によるオリジナル作品で、最近は、女性脚本家のほうが社会問題に果敢に取り組んで、いい作品に仕上げてる気がします。野木亜紀子さんも『アンナチュラル』や『MIU404』ではけっこう社会性の強いテーマを盛り込んでました。
 中島みゆきさんの歌じゃないけど、ホントによのなか、戦わない連中が戦う者を嗤ってるケースばかりです。会社や社会の不正や不条理と戦おうともせず、怒りもせず、正しさとは何かと思考することさえ忌避して、「それがオトナだから」「よのなかそういうもんだから」「会社の方針には従わなきゃいけないから」みたいな薄っぺらい理由を免罪符にしてる体制順応ことなかれ主義者は、20代30代の若い人にも多いですからね。

 眞栄田郷敦さん演じるADの「正しいことがしたいなあ」ってセリフが刺さります。長澤さんが演じる落ち目のアナウンサーとともに、会社と、そして世間の理不尽に怒り、戦い、正しさとは何かを問うフィクションであると同時に、このドラマは制作陣の戦いでもあるんです。
 5年くらい前にTBSでボツにされた企画を、プロデューサーが関西テレビに移籍して実現させたと聞いて、ビックリしました。戦ってるなあ。
 なんでTBSはボツにしたんだろう。報道がウリのTBSこそ、こういう社会性の強いドラマをやるべきなんじゃないの。テレビ局がテレビ局の内情を批判するドラマはタブーなのかな。まあ、メンツとか忖度とか事なかれ主義とか、志の低い連中による自己保身なんだろうけど、そのあたりのテレビ局内の理不尽さへの批判も脚本にしっかり込められてます。会社内では上の男たちのメンツを傷つけないようにふるまわなきゃいけないとかね。
 TBSでボツになったときからすでに主演は長澤さんで決まっていたそうですが、期待にじゅうぶん応える演技をしています。アナウンサーとして画面に登場するときはアナウンサーの発声でしゃべってるし、弱さと強さの振れ具合の表現とか。
 ものまね芸人たちはいまだに、ハタチくらいの頃のヘラヘラしてた長澤さんのイメージをマネしてますが、いつのまにか、シリアスも笑いも演じられる凄い女優さんになってます。

 もちろん渡辺あやさんの脚本の素晴らしさはいわずもがな。プロデューサーや脚本家の戦いを、演出が凝った映像で後押ししてます。私は映像表現の専門家じゃないのでうまく説明できないんだけど、画面からは映画的な陰影というか色づかいというか、そんな印象を受けます。テレビドラマってけっこう、べたーっと撮ってるのが多いんですよね。テレビだと明るく見やすいほうがいいって配慮もあるのでしょうけど。

 『PICU』にもふれておかねば。ようやくこのテーマ、小児救急医療が取りあげられました。
 日本は乳児死亡率の低さでは世界トップレベルです。生まれて1年以内に死ぬ赤ん坊が極端に少ないことは誇っていい。でも、1歳から5歳までの死亡率となると、先進国のなかでワーストに近いという事実はずっと前から知られていたのに、長年無視されてきたんです。
 むかしの俗説では、弱い赤ん坊をムリに生かしてしまうから、その子たちが幼児期に亡くなって死亡率を高めているのだろう、なんていわれてたのですが、10年くらい前だったかな? 厚労省と医学者による研究班がその俗説が間違いであると立証し、真の理由を突き止めました。日本は他の先進国に比べ、小児救急がある病院も医師も極端に少ないから幼児死亡率が高いのだと。
 小さいお子さんをお持ちの親御さんたちは、覚悟しておいたほうがいい。あなたのお子さんが重病や重傷になったら、適切な治療を受けられずに亡くなる可能性が非常に高い。それが日本の現実です。なのに、小児救急医療を充実させようって気運は盛り上がらない。ドラマもその辺を描いてます。
 それは仕方ない? よのなかそういうもんだ? 少子化を問題視しておきながら、こどもが死ぬのはかまわないってのは矛盾してない? 不条理な現実に怒らず容認し、なんの改善も求めないのがオトナなのですか? 
 ドラマやフィクションは問題を提起することができます。でも、実際に問題解決に取り組むかどうかは、現実の人間の判断と行動次第です。
[ 2022/11/29 17:46 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

無宗教な私から見た政治と宗教の問題

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。私は無宗教・無信心な人間です。などといいますと、自分もだとおっしゃるかたがいるのですが、たぶん違うと思います。私がこれまで見てきたかぎりでは、無宗教だと自称する日本人の大半は、宗教に無知で鈍感なだけなことが多かったので。
 これから私は一連の旧統一教会や政治と宗教をめぐる問題について、ひとりの無宗教者・無信心者としての見かたをお話しします。
 私はべつに共感を求めているのではありません。たとえ共感できないことでも、よのなかには自分とは異なる価値観や考えかたが存在するのだと認識していただければけっこうです。
 信仰の多様性といってもいいかもしれません。あなたが信仰(信教)の自由と多様性を尊重する人間ならば、たとえ私のものの見かたや考えかたに納得できないとしても、尊重しようとするはずです。
 もし、あなたが私に対して強い敵意や嫌悪感を抱き、私のような考えの者を排除するべきだなどと考えるのなら、あなたは自分の宗教的価値観を他人にも押しつけて、他人の信仰の自由を平気で奪う、無知で鈍感な人間だということです。

 以前にもブログや本に書いたように、私は見物や観光目的で神社仏閣を訪れることがありますが、祈ったり拝んだり賽銭入れたりはしません。神も仏も霊もオバケも存在しないのだから祈る必要性はありません。神を恨むこともないし、神頼みもしません。
 宗教は信じないけれど文化として尊重しています。宗教建築や仏像などを鑑賞するのはわりと好きです。もちろん美術品として見ているだけのことなので、ありがたいなどという感情は湧きません。
 宗教儀式も私にとっては無用です。墓も葬式も必要ない。葬式には義理で顔を出すこともあるけど、可能なかぎり行かないようにしています。
 と、本に書いたらそれを読んだ人がネットに、なんでこの著者はわざわざ世間に逆らうような苦しいマネをするのだろう、世間にあわせればもっとラクに生きられるのに、みたいな感想を書いてましたが、それはまったく逆なんです。信じてもいない宗教儀式に参加させられることが強烈なストレスになるということを、宗教に鈍感な人たちは想像できないんですね。まったく興味のないジャンルの音楽のライブに連れて行かれ、居眠りすることも許されず最後まで聴くのを強要されるようなもの、といえば少しはイメージできるでしょうか。

 遅ればせながら、安倍さんの銃撃事件を無宗教な私がどう解釈したかをお話ししましょう。
 安倍さんが信仰してた宗教がなんなのかは公表されてません。旧統一教会と結託はしてたけど、信者ではなかったようです。靖国参拝にもかなり熱心でしたけど、神道や国家神道の信者だったかどうかも不明です。けっこう信心深い人だとはいわれてたので、なんらかの宗教の信者ではあったのでしょう。
 しかし結果的に、彼が信仰してた宗教の神や仏も、先祖の霊も、旧統一教会の神も、靖国の英霊も、安倍さんを守ってはくれませんでした。
 ここから二通りの解釈が引き出せます。ひとつは、神は安倍さんを見捨てた。もうひとつは、神はそもそも存在しない。
 あなたが神仏や霊の存在を肯定するのなら、前者の解釈をとらざるをえません。そうなると、安倍さんの信仰心は裏切られたことになってしまいます。
 私は当然、神はそもそも存在しないという後者の解釈を取ります。でも厳密にいうと、存在しないという証明は不可能なんです。では百歩譲って、神仏や霊はもしかしたら存在するかもしれない、ってことにしましょう。だとすると解釈はこのように変わります。神仏や霊はただ存在するだけにすぎず、現世の人間を守ることもできないし、罰を与えることもできない。

 物心ついてから50年近く生きてきましたけど、悪いことをした人間が神仏や霊の罰で死んだなんて実例を、私はひとつも知りません。バチがあたるだとか、霊の呪いで殺されるなんてのが本当なら、殺人犯は全員、被害者の霊に呪い殺されてなきゃおかしい。
 バチは当たらないんです。バチだの呪いなんてのは機能しないということを悟ったから、人間は刑法を作り、人間の罪に人間が罰を与えることにしたのです。
 だいたい、宗教団体の人たちがそれを認めてるじゃないですか。彼らは自分たちに批判的な記事を書いたマスコミやライターをすぐに名誉毀損とかで訴えるんです。
 もしも彼らが神仏や先祖の霊によるバツや呪いを本気で信じているのなら、あいつにバツを与えてくれたまえ~と祈るだけでいいはず。きっと先祖の霊がマスコミを呪い殺してくれるでしょう。
 でも宗教団体は気に食わない相手にバツを与えるために祈りでなく法律というきわめて現実的な手段を用います。つまり、先祖の霊や神仏によるバツなど存在しないことを宗教団体が自ら認めているのです。
 それなのに、おまえは先祖を供養しないから不幸になってるのだ、などと人々を脅し、除霊や鎮魂のためと称して金銭を要求するのは完全なる矛盾です。ウソで金銭を巻き上げるのだからなんらかの犯罪行為に該当する可能性は非常に高いわけで、それを繰り返してたなら、宗教法人に対する解散命令の根拠になり得ます。

 私が問題にしたいのはまさにその点です。宗教団体が法律という手段を悪用している現実。宗教団体が力のある政治家や政党に接近したがるのは、自分らの宗教的価値観を政治家に頼んで法律化してもらう狙いがあるからです。
 宗教的価値観なら「信じない」と拒否されればそれまでですが、法律化してしまえば、信者以外の人間にも否応なく従わせることができます。
 議会で過半数を占める政党と結託すれば、強行採決で法案を可決することもできてしまいます。特定の宗教的価値観が法律化されることがどれだけ危険であるか。この点の認識が甘い人がじつに多い。この危険な行為を防ぐためにも、政教分離は徹底されねばなりません。

 今回の一連の騒動で旧統一教会が批判の集中砲火を浴びたのは、ご存じのとおり。批判されて当然のことをやってきたのだし、むしろ批判されるのが遅すぎたという見かたが大勢を占めています。
 もちろんなかには旧統一教会を擁護する意見もあります。その意見は二つに分類できます。ひとつは安倍さんや自民党の正しさを信じて疑わない右派ポピュリストによる妄信的擁護論。彼らにとって、安倍さんと自民党がやったことはすべて正しいのです。そういうカルト的な信念を持った人たちなので、旧統一教会との癒着も悪くなかったのだ、という論調にねじ曲げてしまいます。
 でも、彼らはこれまでずっと韓国や北朝鮮を反日国家として罵り続けてきた人たちです。なのに、旧統一教会が反日的な教義を唱え、反共を掲げつつも裏で北朝鮮に資金を流していると報じられたいまになって旧統一教会を擁護するという、まったくスジの通らないことをやってます。

 もうひとつの擁護論は、旧統一教会だけを擁護するのでなく、信仰(信教)の自由を広く擁護すべきだといいう原則論にもとづくもの。原則論を重視することで、結果的に旧統一教会への批判はやりすぎではないかという主張になってるわけです。
 自由の価値を認めてる点は評価できますが、信仰の自由の本質や、自由という概念の理解が不十分なため、危機意識が欠落した甘すぎる擁護論となってしまってます。

 信仰の自由とは、信仰する自由であると同時に、信仰しない自由でもあります。
 あなたがどんな宗教を信仰するのも自由です。しかし、その信仰を他人に強制することは許されません。それをやったら信仰は自由ではなくなるからです。信仰する自由と信仰しない自由、両方セットで保証されることではじめて信仰の自由は成立するのです。
 私のように無宗教・無信心というのも信仰の自由の一形態であり、無宗教もまた、信仰の自由によって尊重されるのです。

 自由には大事なルールがあります。おのれの自由を主張する者は、他者の自由も可能なかぎり尊重しなければなりません。単純な理屈ですよね。自分だけが自由を行使して、他人の自由を奪っていたら、それは独裁者のやり口です。自由とは名ばかりのファシズムです。
 ただしすべてを自由にすると、力が支配する世界になってしまい、不利益を被る人が出てきますので、何らかの制限が必要になってきます。
 自由は最大限尊重されるべきものであるからこそ、他人の自由を制限する場合には納得のいく理由が必要です。その理由の説明責任は制限する側にあります。まともな理由もなしに他人の自由を奪ってはいけません。

 宗教に無知で鈍感な人たちをなぜ私が嫌ってるのかというと、そういう人たちは自分が信じる宗教的価値観を他人に押しつけてもよいと考えるからです。しかもそれを善意でやってることもけっこうあるので、宗教はやっかいだし、危険でもあります。

 私は無宗教だけど、それを他人に強制するつもりはありません。宗教を批判することはありますが、信仰するな、とはいいません。他人の信仰の自由を尊重しているからです。
 意外かもしれませんが、私は国会議員の靖国参拝を認めてます。靖国神社に戦死者がまつられているというのは明治政府が作った新興宗教です。でも宗教なので、個人がそれを信じて参拝するのは自由です。国会議員だからといって参拝するなというのはそれこそ信仰の自由の侵害です。
 ただし、見過ごせない大きな問題がひとつ。靖国に参拝した議員、とりわけ自民党の議員に多いのですが、彼らは参拝後にマスコミから取材を受けると、「日本人として当然のことをしたまでだ」みたいな返答をすることがよくあるんです。
 この発言はあきらかに憲法違反です。日本人には靖国に参拝する権利もあるし、参拝しない権利もあります。どちらも憲法で保証された「当然の」日本人の権利です。
 靖国参拝を日本人として当然だという議員は遠回しに、参拝しないヤツらは日本人ではないとほのめかし、日本人全員に特定の信仰を強要してるわけで、政治家、国会議員としてあるまじき発言です。
 繰り返しておきますが、靖国に参拝することが問題なのではありません。参拝しない人を批判する発言・行為こそが、信仰の自由を否定する危険なファシズムにつながるのです。
 なぜこの点を野党がキビシく追及しないのか不思議なのですが、たぶん野党の人たちも鈍感だからわかってないのでしょう。

 この際だからはっきり申し上げておきます。アメリカのキリスト教福音派と日本・韓国の旧統一教会には、キリスト教を名乗る資格はないし、宗教団体としても問題がありすぎると思います(日本にもキリスト教福音派を名乗る人たちがいますが、アメリカの福音派とは異なるので、同一視しないようにしてください)。
 どちらも力のある政治家・政党と協力関係になることで、自分たちの宗教的価値観を法律化し、信者以外のすべての人々にも強制する運動を実行しています。これは宗教ファシズムといってもいいくらいに危険な活動です。
 アメリカでは共和党内のトランプ支持派と、キリスト教福音派のなかでもカルト傾向の強い人たちが結託しています。トランプは大統領時代、福音派の信者もしくはそれに近い宗教的価値観を持つ裁判官を次々に最高裁判事として任命し、最高裁は保守派の判事が極端に多い、いびつな構成になりました。
 その結果、妊娠中絶が合法であるというこれまでの判断を最高裁が一方的に覆し、福音派の宗教的価値観を国民全員に強制する道を開いてしまいました。
 本来ならこれは、国民投票で決めてもいいくらいに重要な問題です。世論調査の結果では中絶を認める人が多数でしたから、もしも国民投票をやったら中絶は合法になるでしょう。しかし保守派は自分たちが手にした権力を使い、少数派の宗教的価値観を法律化して国民全員に押しつけるという強硬手段に出たのです。

 幼い命を殺すなと中絶に反対する主張は一見、人道主義的に思えますが、まゆつばものです。なぜならその同じ人たちが銃規制に反対し、銃を持つ権利を主張してるんですよ。本当に人道主義の人なら銃規制に賛成するはずです。人を殺す銃を持ちながら、胎児を殺すなというのは矛盾です。
 アメリカでは幼いこどもが、家にある銃の誤射で死んだり、いたずらして家族や他人を射殺する事件が頻発しています。アメリカではテロリストに殺される人より、銃を持った幼児に殺される人のほうが多いという統計データもあるくらいなので、こどもの命を守りたいなら銃規制に賛成すべきです。

 また、彼らは同性愛者や、いわゆるLGBTみたいな人たちに対して異常なまでの敵意を抱いてまして、同性婚など同性愛者たちの権利も政治と法律を使って禁止・制限しようと運動しています。
 彼らのいいぶんは、同性愛は聖書で禁じられているからというものですが、それはイエス・キリストの言葉なんでしょうか。
 私はクリスチャンではありませんが、西洋文化を理解するために欠かせないので聖書の内容をある程度勉強しました。信仰心はないけど、イエスはリベラルで人道的な人だと好感を持ってます。
 隣人を愛せ、つまりは家族でも友人でもない他人を愛せというのがイエスの教えのなかでも最重要な教えである、と私は理解しています。クリスチャンのかたはそうじゃないというかもしれませんが、ともあれ、そんな隣人愛にあふれたイエスが、同性愛者に石を投げよなんていうはずがありません。聖書で同性愛を否定してるのはイエスの弟子とかじゃないですか。

 旧統一教会もLGBTを猛烈に批判しています。選択的夫婦別姓にも反対してるようですが、そもそも韓国は夫婦別姓なのに、これまた矛盾しています。
 日本各地の地方議会では、「勉強会」なるものに旧統一教会の関係者が講師として登場し、LGBTは危険なものであるという科学的にも社会科学的にも間違っている偏見を語り、彼らの権利を認める法案や条令案を潰すよう働きかけている事例が多数報道されてます。
 私は同性愛者ではありませんが、同性愛者の存在や権利は認められるべきだと思ってます。なぜなら彼らは社会になんの害悪も及ぼしてないからです。デマを流して無害な他者を排斥する人たちのほうが、社会にとってはよっぽど危険な存在です。
 トランプは批判されて反論できなくなるとすぐに「魔女狩りだぁ!」とバカの一つおぼえで叫びますが、社会になんの害悪ももたらしてない同性愛者を、ただ気持ち悪いから、気に食わないからというだけで迫害する行為こそが現代の魔女狩りです。魔女狩りをやってるのはトランプや福音派や旧統一教会のほうです。
 まあ誰にでも偏見はあるものです。個人的に偏見を持つだけなら、それを禁じることはできません。でも政治家とタッグを組んで、偏見を法律化して信者以外にも押しつけるとなったら話はべつ。私は断固として反対します。

 長くなったのでまとめておきましょう。自分の自由を主張するならば、他人の自由も尊重しなければいけない。これが大原則です。そして、信仰の自由には、信仰しない自由も含まれます。
 政治と宗教が結託して、信仰しない者にまで特定の宗教的価値観・道徳観を強制するのは、「信仰しない自由」の侵害です。他者の信仰の自由を奪って自分らの信仰を押しつけるのは支配の論理です。
 他人の信仰の自由を奪おうとする者には、おのれの信仰の自由を主張する権利はありません。旧統一教会にかぎらず、他人の信仰の自由を奪おうとする宗教団体を、私は擁護しません。
 旧統一教会と自民党の癒着をべつにいいじゃないか、たいしたことではない、などと軽く考えないでください。政治と宗教の癒着を甘く見ないほうがいい。両者が結託することで、信仰や思想の自由を奪う危険な力になりうることを忘れてはいけません。
[ 2022/11/14 17:50 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告