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『読むワイドショー』のレビューについて思うところをお話しします 《前半》●政治ネタへの言及を不自然に避ける批判レビュー
さて、そろそろ批判的・否定的な意見を見ていきましょうか。
『読むワイドショー』では政治圧力とそれに抗った芸能人たちの歴史について、もっとも多くのページ数を割いてます。賛否が分かれるなら当然ここだと予想してましたけど、実際の感想は「賛」か「無視」でした。
批判的なレビュアーは、政治関連の話題への言及を不自然なくらいに避けて、抽象的な言葉で本全体をやんわり否定してきます。
自民党の黒歴史ばかり取りあげないで、野党も批判しろ、みたいな定番の論点ずらしをしてくる人も、今回はいないようです。
私が野党のことをあまり取りあげないのは、野党にはおもしろいネタがないからです。そりゃそうでしょ。権力を持つ与党だから、いいことも悪いこともできるんです。権力を持たない野党には、いいことも悪いこともできません。
自民党や保守政治家の黒歴史をバラすな、と怒りのレビューを投稿してしまうと、かえって興味を持って本を読む人が増えるのではと警戒して言及を避けてるのかもね。まあ、これは私の邪推ということにしておきましょう。
●パオロはキレがなくなった?
パオロは『反社会学講座』のころはキレがあったのに、最近はキレがなくなったみたいな感じのレビューが複数ありました。
1件でなく複数あるってことは、キレがないというフレーズがSNSや掲示板で流行ってたりするのかな? まさか同一人物が書いたもの? そこまで手の込んだ批判活動をする意味はなさそうですけど。
この手の批判もご多分に漏れず、どこがどうキレがないのか、逆に『反社会学講座』でキレがあるとはどの個所を指していってるのか、そういった具体的な指摘がまったくありません。
具体的な批判ができないのは、議論においては負けです。具体的な根拠をもとに、ズバリと論破できる能力のある人を「キレがある」というんです。あいまいな言葉でしか批判できないのは「キレが悪い」のです。
●反則をしない覆面レスラー
私は本を執筆する際に、大量の事実を調べ、わかった事実をお伝えしています。多くの事実を並べたなかに、事実にもとづいた自分の考察を織り交ぜてます。私は著書を通じて、事実という情報を伝えることを第一に考えてます。自分の考察は二の次です。それは、自分の考察や価値観、結論だけを押しつけるのでなく、読者のみなさんにも正しい事実にもとづいて正しく考えてほしいから。
私は匿名の書き手ですし、名前もプロフィールもふざけてるので、イロモノ系の覆面レスラーみたいに思われがちです。匿名でものを書いてるヤツは信用できない、という批判もときどきあります。
その点に関してはすでに前作『思考の憑きもの』で検証しておきました。匿名だからダメという判定基準は論理的にも歴史的にも間違いであることを論証しておきましたので、興味のあるかたは読んでください。
覆面ではあるけれど、私は反則プレーをしない正統派のファイターです。出典をすべて明記して事実を伝えているのだからズルはできません。提示した事実が気に食わない、信じられないなら、どうぞ出典をたどって確認してください。
根拠もないのにヘリクツや詭弁をまくし立てて相手をやり込める反則技を使うのでなく、地道に事実を調べて伝えるというストイックな正攻法で、私は本を書いてます。でも事実をただ並べるだけでは無味乾燥な本になってしまうから、文体や文章でおもしろく読ませる工夫をしているつもりです。
そういった姿勢がまったく評価されず、匿名や文体を理由にイロモノと決めつけられてるなら、とても残念です。
もっとも重要な点をいっておきます。私にキレがあろうがなかろうが、私が提示した事実は変わりません。だからキレがあるとかないとかいう評価自体、意味がないんです。私を揶揄しても嫌っても憎んでも、事実が事実でなくなることはないのですから。
●間違った印象を持ってしまう理由
お言葉ですが、『反社会学講座』を書いた頃の私より、いまの私のほうが調査能力も思考力もだいぶ向上しています。これは自画自賛ではありません。たぶん専門の研究者が私の本を読み比べれば同意してくれるでしょう。
実際、『反社会学講座』の出版当時、脇があまいみたいな指摘を学者から受けました。調査も考察も徹底していない、まだまだ浅いぞという意味だったのかと。自分でもその自覚はあったんで、努力しました。20年も続けてりゃあ、だらだらやってても、それなりに進歩しますよ。最近の著作は『反社会学講座』の頃よりずっと深掘りしてるし、情報密度も大幅に濃くなってます。
なのになぜ『反社会学講座』はキレがあって、『読むワイドショー』や最近の著作にはキレがないと間違った印象を持つ人がいるのか? それは単に、『反社会学講座』では自分が気に食わないものが批判されてたから大喜びしてたのに、最近の作品では自分が嫌いなものを批判してくれず、どちらかというと自分が支持したいものが批判されているってだけのことでしょう。
もし本当に私の本にキレがないのなら、読んでも何も感じないはずです。実際はそうじゃない。私が伝えた事実にキレがありすぎて、自分の価値観や常識が傷つけられてムカついてる。でも記述内容に具体的に反論できるほどの調査能力も論理思考力もない。かといって、パオロがいってる事実を認めて自分の中の常識を書きかえるのは屈辱的だ。そうだ、パオロはキレがなくなったんだ。やっぱ自分は正しいのだ。
こんな感じでしょうか。これも邪推といいたいところですが、心理学でいう認知的不協和と自己正当化のプロセスにかなり近いと思われます。
自分の価値観や常識と異なる情報に接すると、人間はとても不安になります。自分の正しさを守りたい欲求に負けると、自分の間違いを認めずに、ヘリクツや詭弁で情報のほうを否定してしまうのです。世界的に有名な学者でも、無意識のうちにこういう自己正当化をしてしまうことがあるんです。だから自分の正しさに自信を持ちすぎるのは危険です。
これについては『なぜあの人はあやまちを認めないのか』(タブリス&アロンソン著 河出書房新社)という本が実例豊富で読みやすいのでオススメしておきます。
●歴史にこだわる理由
『読むワイドショー』は自分が生まれる前の人物ばかり出てくるからおもしろくない、みたいなレビューもありました。
そうですか? 現役の人物も登場してますけどね。現役の議員である三原じゅん子さんがタレント時代に自民党政治家をこきおろし、中曽根総理のハゲいじりをしてたなんてエピソードはお気に召しませんか?
自分が体験してきた物事を再確認して、これあったあった、と懐かしむために本を読む。それも、もちろん読書の目的として間違いではありません。
でも私は自分がすでに知ってること、体験したことしか書いてない本なんて読む気がしないんです。私は50すぎてますけど、まだまだ知りたいことがたくさんあります。私にとっての良い本とは、自分が知らない情報を伝えてくれる本です。だから自分も、他の人たちが知らないであろう興味深い情報をできるだけたくさん本に詰め込んでお届けしたいんです。
私が歴史にこだわるのは、社会問題の根がすべて過去にあると気づいたからです。過去の歴史はすべて現在につながってます。
社会問題はある日突然降ってくるものではありません。過去に必ずなんらかの原因・発端があるのですが、その時点では誰も気づきません。そこから問題の芽と根が伸びて、無視できないくらい成長した時点でようやく、社会問題として認知されるのです。
ところが社会問題はなんらかの要因によって、一時的に収束し、見えなくなることがあります。
戦争や災害の歴史は、風化させてはいけないと語り継ぐ人たちがいるのですが、社会問題は語り継ぐ人がいないんで、すぐに忘れられます。しかし社会問題の根は残り続け、いつかまたちょっとカタチを変えて芽を出します。すると人々はそれを新しい問題だと思ってしまうのです。
以前の著書で検証した例ですと、電車内で女性が化粧をすることへの批判。みなさんこれを近頃の若者のマナー低下と決めつけてますが、これが最初に社会問題となったのは大正時代だったんです。100年前のギャルもマナー意識はいまと変わらなかったのです。
保育園や公園でこどもが騒ぐのがうるさいという苦情。むかしはそんな苦情なかったよ、みんな寛容だったのに……って嘆くのも間違いです。1970年代の東京23区では、こどもがうるさいという苦情や訴訟が頻発し、どこの区も担当者が頭を悩ませてました。こどもに寛容じゃない人は、むかしも大勢いたんですよ。
政治家・政党による放送・報道への圧力だって、いまに始まったわけじゃなく、60年以上前からずっと繰り返されてきた社会問題のひとつです。
社会問題はいまだけを見てもそのメカニズムはわかりません。いましか見ずに自分の感情・印象をもとに歴史を「誤読」してるから、的外れな対策を取ってしまうのです。
正しい過去の事実をもとに、いまの社会を考える基本姿勢は『反社会学講座』のころから変えてないつもりですし、何をいわれようと変えません。これからも社会の不合理・不条理や歴史の美化・捏造を批判していきます。