こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。しつこいようですが、日野さんの暴行事件について、ここ数日ずっと考えてました。情緒ウィルスに冒された人々が歪んだ論理をばらまくことを、私は許せないので。事件そのものも不愉快ですが、世間の反応がもっと気持ち悪い。なんとかこの得体のしれない気持ち悪さの正体を暴きたい。私は思考をあきらめません。
今回は、ジャズファンとしての目線から、事件の本質と世間の反応の気持ち悪さについて考えました。
本題の前に、松本人志さんがテレビで、体罰はむかしは当たり前だったのに、いまはなぜありえないのかわからないといったことにお答えします。松本さんは誤解してますが、むかしもいまも体罰は違法です。むかしは順法意識が薄い人が多かったので、平気でルールを破っていたというだけのこと。
明治以降、日本の法律で体罰が認められたことは一度もありません。法治国家では原則的にすべての暴力は違法とされますから当然です。
明治時代の学校でも体罰はありましたが、当時の朝日・読売新聞の報道でも、ヒドいことだと批判的な論調です。親も学校に抗議してました。むかしの親は学校に文句などいわなかった、ってのも捏造史観。
昭和30年代にも教師の体罰はたくさんありましたが、当時は生徒も先生を殴ってました。ある意味、双方向の暴力によるコミュニケーションが成立してたんです。
昭和40年代になると生徒からの暴力は激減するのですが、教師の体罰は予防措置の名目で一方的に続いてました。松本さんはこの時期に育っているので、それを当たり前と思ってるわけです。
このあと昭和50年代には生徒からの逆襲がはじまり、学校が再び荒れますが、このあたりからはご存じのかたも多いので省略します。
さて、『サンデージャポン』では爆笑問題太田さんが、日野さんをたいした音楽家じゃないと発言。私はこちらのほうが問題の本質に深く関わっていると考えます。
ネットの動画で確認したのでカットされてる可能性はありますが、太田さんの発言に対する出演者の反応を見れば、だれひとりとして、日野さんの音楽をちゃんと聴いたことがないのだな、とわかります。日野さんの音楽性については、だれも反論してないからです。
とくにヒドイのが女医の西川さん。ジャズについてなにも知らないことがバレバレなのに、文化がどうのとご高説を垂れている姿はエセ文化人丸出し。つまり西川さんは、日野さんはなんだかよくわかんないけどエラい人だからという理由だけで尊敬し、擁護してるんです。
世間の人にも非常に多い、権威盲従主義者の蔓延が、気持ち悪さを感じる大きな原因のひとつです。日野さんを優れた音楽家、有名な音楽家だと持ち上げて、彼の暴力を擁護してる世間の人たちのほとんどは、おそらく日野さんの音楽を聴いたことすらないという、この気持ち悪さよ。
同じミュージシャンでも川谷さんのゲス不倫問題のときは、みんな寄ってたかって川谷さんを責めまくってました。「でも川谷さんは才能あるし、やってる音楽はいいよね」とだれかがつぶやこうものなら、「そんなのは関係ない! いくら音楽的才能があったって不倫は許されない! 人間性に問題のあるヤツの音楽なんて聴きたくない! 活動停止しろ!」と噛みついてたじゃないですか。
そんな人たちが今回は、音楽的才能のある日野さんは人格者・教育者としても優秀である、だから彼の暴力は許される、活動を続けてほしい、といってるんだから、むちゃくちゃですね。
では、日野皓正の音楽的価値とはなんなのか。八幡謙介さんという元ジャズミュージシャンのかたがネットに書いてます。
http://k-yahata.hatenablog.com/
日野皓正の音楽に全く触れなくてもジャズを正しく理解し、楽しみ、学ぶことはできる。だから彼の音楽に触れる”必要”はない。
ジャズ全体の歴史の中では完全にスルーしても何の問題もない人です。
事実僕はジャズを学んできて「日野皓正を聴け」と言われたことは一度もないし、ジャズ関係者から日野皓正という単語が発せられたことを見たことがありません。
日野皓正が好きというジャズミュージシャンにもジャズファンにも出会ったことはありません。
ジャズを30年聴いてきたジャズファンの私は、八幡さんのこの意見にまったく同感です。私も日野さんのジャズをいいと感じたことは一度もありません。だから自分の感性が特殊なのかなと思ってましたが、なんだ、同意見の人はけっこういるんですね。
べつの記事で八幡さんはドラム少年の逸脱についても考察してますが、そちらも同感。反論してる人のほうがジャズの楽しみかたを知らないんだな、かわいそうだな、と思ってしまいます。
今回の事件で皮肉なおもしろさを感じたのは、事件の関係者でもっともジャズの精神をわかっているのは、あのドラム少年だという点です。日野さんはもちろんわかってるはずだけど、やや怪しい。劣化してるかも。ドラム少年の両親はジャズファンではないですね。
ジャズファンとしての目線で読み解くと、こうなります。ドラム少年はジャズファンの目と耳を持っているから、日野さんがたいした音楽家ではない、ジャズミュージシャンとしてはとっくに限界を迎えた過去の人だという事実を非情にも見抜いてしまった。だから演奏本番の舞台でああいう逸脱を決行した。で、日野さんは自分が見抜かれてナメられたことに気づいたので、アタマに血が上り、殴ってしまった。
日野さんがあとからなんだかんだといいわけしてるけど、どの言葉もウソ臭く聞こえます。なぜウソ臭いかというと、自分のジャズミュージシャンとしての誇りを傷つけられたからガマンできずに殴ったのだ、という核心に触れる点を正直にいわないから。個人的な要因を、教育やしつけや礼儀作法といった一般論にすり替えてしまってる。
みなさん思い違いをされてませんか。芸術家という職業はカタギではないんです。そもそも芸術家は才能のみを評価されるべきで、人柄の良さや人格の高潔さを求めることが、まちがってるんです。どちらかというと、社会にまともに適応できない人に用意された生きる道が芸術や芸能です。
もしも今回の事件に関して、世間の論調が「日野皓正はアタマのおかしい芸術家だね。だから暴力的な指導をしてたとしてもしかたないよ」と、いうものだったら、暴力=異常、暴力=逸脱、芸術=逸脱という公式が成立してるので、私は納得していたでしょう。「あの少年もおかしいけど、日野もおかしいよな」と公平に両者の逸脱行為を責める意見にも、論理のゆがみやねじれはあまりありません。
ところが世間のみなさんは、少年を悪者にして、日野さんを正義のヒーローにまつりあげ、法治国家への挑戦である暴力という行為を美化しました。
一流の芸術家は一流の権威であり、一流の人格者でもあるはずだ、となんの根拠もなく決めつけたうえで、人格者は暴力的な指導をしてもかまわない、権威ある者は格下の者を殴って指導してもかまわないとする主張は、もはや理屈にすらなってません。論理のゆがみとねじれと破綻が気持ち悪いったらありゃしない。
逆でしょ。人格者だったら、たとえどんな理由があろうと、衆人環視の場で人を叩いたりしませんし、できませんよ。日野さんが人格者でないことは、現行犯で証明されたようなものです。
それにしてもなんで関係者のみなさんが、日野さんに指導してもらうことに拘泥してるのか、よくわかりません。ギャラが安いの? 日野さん以外にも才能のある人はたくさんいるんだから、日野さんをクビにして、べつの指導者を迎えたほうが、あのバンドはジャズバンドとしてもっと伸びると思いますよ。
日野さんも、現役感のない指導者なんかでいいひとぶるのはやめちまって、もういちど表舞台でジャズを引っかき回してやるぜ、オレをなめてる若いヤツらをアッといわせてやる、くらいの気概を持ってほしい。それでこそ、ジャズじゃないですか。