こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。またヘリクツこねて暴力を擁護する連中のお出ましです。ビール瓶で殴ろうが素手で殴ろうが、暴力は暴力でしかないってのに。
一番バカ丸出しなのは、日馬富士と貴ノ岩を土俵で勝負させて決着をつけろ、とかいってるヤツね。それ、二人の実力が拮抗してるのならまだわからないでもないですよ。でも横綱と前頭では力の差がありすぎて、公平な勝負になるわけがない。貴ノ岩にはビール瓶を持たせるとか、ハンデをつけるなら話はべつですけども。
以前から私の本やブログをお読みなってるかたならご承知でしょうが、私は一貫して、暴力を基本的に全否定する立場です。で、これが評判が悪い。こないだの日野体罰事件のときもそうですが、どういうわけか日本には、暴力を美化・擁護・肯定する人が想像以上にたくさんいます。私はその事実にぞっとするのです。自分と倫理観や道徳観、価値観のちがう人間は暴力で矯正すればいい、とたいして悪びれずに考えてるんです。それはまさにテロリストと同じ行動原理だというおぞましい事実に気づいてないんですね。
私は体罰も含め、暴力をふるう人間を例外なく軽蔑します。その理由は、暴力がとても常習性が強い行為だからです。暴力に関して、人間はかなりはっきり2種類に分かれます。何度も暴力をふるう人と、まったく暴力をふるわない人。その中間はほとんどいないんです。
麻薬や万引きと同様に、暴力も一度ふるうとクセになります。DVが典型的な例ですが、暴力は必ず繰り返される。一度で終わりません。体罰で生徒に重傷を負わせた教師の証言などを読むと、たいていの人が体罰は麻薬だ、やめられない、といってます。最初は軽い気持ちでも、いつか事件になるんです。
暴力事件が発覚した場合、その加害者はまずまちがいなく、それがはじめての暴力ではなく常習犯です。いままで運良く発覚しなかっただけで、同じようなことを何度もやってます。だから私は暴力加害者に同情しないのです。
百歩譲って、もしそれが人生初の暴力だったとしても、暴力をふるってしまった時点で自ら辞めるべきでしょう。会社だろうが学校だろうがスポーツだろうが。それが最低限の落とし前です。その覚悟もないのに暴力をふるって、バレたらいいわけを並べて自己保身に走るなんてのは人間のクズです。だいたい、暴力を擁護する強権的な日本人は日頃から「いいわけをするな!」って後輩や部下や生徒を叱ってるように思うのですが?
私はクズになるのがイヤだから、暴力をふるわないことに決めてるし、全否定します。きれいごとをいってるのではありません。そこまで徹底するのは、自分の弱さを自覚してるからです。現実を見てるからです。暴力という安易な解決法に走らぬよう、暴力の扉を閉めてあるのです。自分の強さを過信して、暴力は制御可能だと考えることのほうが、理想主義のきれいごとです。
暴力にはいい暴力と悪い暴力があって、場合によっては許される、いっても聞かない無礼・不道徳な人間なら殴って教育してもよいのだ、とかなんとかもっともらしいゴタクを並べて暴力を擁護する人は、暴力の扉を開けっぱなしにしてあるんです。いつでも入れる状態にしてあれば、いつか誘惑に負けて入ってしまう。それが人間です。一度暴力の扉の向こうへ足を踏み入れたら、もう暴力のとりこです。暴力には夢も希望もない。扉の向こうは、いいわけばかりのクズの国。酔った勢いで駅員を殴り、オレは正義だとわめくような人間になりかねません。
だからこそ私は忠告します。暴力の扉は閉めておけ、と。
[ 2017/11/19 22:36 ]
未分類 |
TB(-) |
CM(-)