こんにちは、暴力研究家のパオロ・マッツァリーノです。怖がらないでください。私は非暴力主義者なので、暴力はふるいません。基本的にすべての暴力を否定してます。
そしてなにより、暴力をふるう人間を軽蔑します。理由はふたつ。ひとつは、暴力はきわめて常習性が強い行為だから。暴力に関しては繰り返しふるう人間と、まったくふるわない人間の2種類にかなりはっきりわかれます。
もうひとつの理由は、暴力をふるう者は必ず論理がねじ曲がったヘリクツをこねて自己弁護に走るから。
さて、最近、政治家が暴力をふるったとされる件が2件報道されました。石崎徹衆院議員が秘書に暴力をふるっていたことで訴えられた件。それと、幸手市の渡辺邦夫市長が広島で飲食店従業員の女性を殴ったとして逮捕された件。
石崎議員は正式にコメントを公表し、渡部市長は会見を開きました。彼らの主張を分析すると、非常に興味深い共通点がみつかります。それは両者とも、暴力をふるってない、とはひとことも発言してないことです。明確に暴力行為を否定する文言がどこにも見られないんです。
暴力の容疑者には、こう質問しなければいけません。「あなたは暴力をふるいましたか? イエスかノーでお答えください」。
物理的・肉体的な暴力に関しては、ふるったかふるわなかったかの2択しかありません。だから、暴力をふるいましたか? という質問の答えは「ふるいました」、「ふるってません」このどちらかしかありえないのです。
ところがこのふたりは、どちらも明確な否定をせず、あいまいな言葉をたくさん並べて論点をぼかし、煙に巻こうとしています。
石崎議員は7月22・25日付けのブログでコメントを発表してますが、暴行の事実に関して否定も肯定もしてません。「暴行をはたらくはずがありません」と書いてますが、これは一般論として、意志による可能性を述べてるだけにすぎません。運転中の秘書を殴ったら運転をあやまる可能性があって危険だから殴るわけがないだろう、という一般論をいってるだけ。
でも現実にはその可能性はあるんです。過去に、運転中のタクシー運転手が客に殴られたケースはたくさんあります。危険性なんてものを考慮する前に手が出てしまうのが、暴力常習者の特徴なんです。
なぜ石崎議員は、秘書に暴力をふるったことはありません、ときっぱり否定しないのでしょうか? イエスかノーかで答えればいいんですよ。簡単でしょ? 幼稚園児でもできる簡単なことが、なぜできないのですか?
渡辺市長は警察からいったん釈放されたのち、8月9日に記者会見を開きましたが、不思議なことにこのひとも、暴力をふるってない、とはひとこともいってないんです。私がテレビで放送された会見を注意深く見ていたかぎりでは、明確に暴力行為を否定する言葉は聞こえてきませんでした。摩訶不思議ですよねえ。イエスかノーかで簡単に答えられる問題になぜ答えないんでしょ?
で、代わりに吐いた言葉が、「青天の霹靂」「身に覚えがない」。青天の霹靂なんてのは事実認定に無関係のレトリックにすぎないので取りあげる価値もないし、「身に覚えがない」という言葉も暴力行為の否定にはなってません。むしろこれは、暴行の事実があった可能性を示唆しています。「実際には暴力をふるってたかもしれないが、それは自分の意識がなかった状態でのことなので、自分は事実認定をできないし、責任もない」という主張をひとことでいうと、「身に覚えがない」になるのです。
会見の内容も矛盾だらけでした。自分は酒に強いと豪語して、記憶してる経緯をこと細かくしゃべるのに、暴力をふるったとされる前後のくだりになると急に、身に覚えがなくなっちゃうんだから、ずいぶん都合のいい酒ですねえ。広島にはそんな珍しい酒があるんですかね。
本当に暴力をふるってないひとが無実の罪に問われたら、「やってない」と明確に否定します。明確な否定があったあとから、やるはずがない、青天の霹靂だ、などの言葉がつけ足されるんです。弁護士の入れ知恵なのかしらんけど、明確な回答をせずにレトリックばかりを弄するのは卑怯です。
[ 2019/08/10 16:59 ]
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