こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。ひとむかし前までは、毎年8月に放送される戦争関連のテレビ番組といえば、戦争の悲惨さというお題目を感傷的に訴えるものばかりという印象でした。
でも最近は作り手の意識が変わってきたようです。忘れられた事実を掘り起こして伝えようとする、文化史的に価値のある番組が増えてきたのは好ましい。とくに今年は見応えのあるものが多かったです。
NHKの『あちこちのすずさん』は、『この世界の片隅に』で描かれたような戦時下の庶民生活体験談を一般から募集して紹介する企画。
私は『この世界の片隅に』の原作マンガに感銘を受けて、アニメ化される前から推してました。それまでの戦時下の生活を伝える物語は、抑圧された窮乏状態をみんなで必死に耐えました、欲しがりません勝つまでは! みたいな暗い世情を描くものがほとんどでした。ところが『この世界の……』では、戦時下でも庶民が笑ってます。日常に喜怒哀楽が存在してるんです。
考えてみればそれがあたりまえで、国民全員が一丸となってお国のために耐えていた、なんてきれいごとにこそムリがあるんです。戦争中は国民全員が我欲を捨てて道徳的に生きてたなんて思わせるのは、歴史の捏造ですよ。以前ブログに書いたように、空襲の際に火事場泥棒してたヤツとか、不道徳な日本人もたくさんいたのが事実だし。
番組では、戦時下でも禁止されるギリギリまでパーマをあててたり、こっそりおしゃれをしてた女性がたくさんいたという証言が寄せられてました。みんな非国民だったよ、みたいに自嘲する証言もありました。私はそれを全然けしからんとは思いません。むしろ、その人間らしさが頼もしい。人間らしさを残してた者が非国民と呼ばれたのなら、国民になるには、人間性を失わなきゃいけないってことですわな。
首都圏ではフジテレビで放送された、テレビ新広島制作の、原爆ドームという名称がいつから使われるようになったのかを検証していく番組も、文化史的な興味をそそられる秀作でした。
終戦直後は、原爆被害を伝えようとする活字メディアがGHQによって徹底的に検閲・削除されてたことは想像の範囲内でしたけど、原爆という言葉を使うことが許されず、「原爆」は「平和」に置きかえられたっていう、ブラックジョークみたいな事実には呆れました。広島市民のあいだでは原爆ドームという呼び名がじょじょに使われるようになってたけど、それが活字になって広まったのは日本が主権を回復してからのことだったようです。
Eテレでは原爆をテーマにした幻の映画『ひろしま』が放送されました。私はこの作品の存在すら知りませんでした。過去にテレビで放送されたことあったのかな? 製作当時、アメリカに忖度して映画館で上映されなかったいわくつきの作品だけに、もし地上波初放送だったとしたら快挙です。
とはいえ、もしも映画本編だけの放送だったら、なんだまた一昔前の反戦映画か、とスルーしてたと思います。今回、本編に先立って、映画製作から公開、現在までの経緯を取材したドキュメンタリーが放送されました。これとセットで見ることで、とても興味深い歴史文化番組となったのです。
先にいっときますが、この映画はとくに主役らしき者がいない群像劇です。原爆投下から7年か8年経った中学校の教室のシーンからはじまり、投下日の回想シーンに移っていく構成になってますが、基本的にエピソードの寄せ集めなので、ストーリー性を求めるとがっかりします。でもストーリーってのは、感動を増幅するためのウソですから。
まだなまなましい記憶やトラウマがあっただろう時期に、数万人の市民が協力・出演したというのが凄い。でも原爆投下後の実態を目撃・体験したひとたちがエキストラをやってるから、芝居自体はうまくなくても、得体のしれないリアリズムが画面から漂ってきて、ぞっとします。
冒頭の中学校のシーンでは生徒のひとりが、いつ原爆症が発症するかと脅えて生きてるのに、原爆を鼻にかけてるだの、原爆に甘えてるだのと批判される、と怒りをぶちまけます。
ああ、日本人の心性は変わってませんね。被害者や弱者は謙虚にしてなきゃいけない、自分から救済を求めるのはずうずうしい、みたいなひねくれた道徳観がむかしから日本にはあるんです。じゃあ謙虚にしてたら助けてくれるのかというと、弱者を助けるのは偽善だとか、被害に遭ったほうにも責任があるとかヘリクツ並べて、結局なにもしない。
古い作品だけどリマスターされていて、画像は非常に鮮明でした。ドキュメンタリーでは、リマスター作業を担当したのがアメリカの会社だったことを伝えてました。アメリカ人が、こういう文化的に意義のある作品は残さなきゃいけないと手をあげてくれたのに、日本ではこの作品が忘れられてるってのが、なんとも皮肉です。
[ 2019/08/28 08:21 ]
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