こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
略奪行為が集団で行われる場合には、この傾向は軍国主義とか、最近では愛国心などと呼ばれている。
なかなかエッジの効いた皮肉です。「最近では」となってますが、この「最近」とは1899年、日本でいえば明治32年のこと。
これは2022年に読んだ本のなかでもっともおもしろかった本からの引用です。
『有閑階級の理論[新版]』ソースタイン・ヴェブレン 村井章子訳 ちくま学芸文庫
いわずと知れた、社会学の古典的名著です。私は20年以上前に読んだきりでしたけど、近年
(といっても7年前だけど)新訳が出ていたことを知り、図書館でぱらぱらとページをめくっていたら、古臭さがまったく感じられないことに驚きました。
愛国心などという美辞麗句を免罪符にして略奪行為を正当化する無法者どものやり口を、ヴェブレンは100年以上前に見抜いてました。その指摘がいまでも通用してしまうのはヴェブレンの眼力のすごさか、はたまた、人類がこの100年進歩していないってことなのか。
この本で有名なのは前半部で論じられた理論「顕示的消費(衒示的消費)」です。貴族や大金持ちが必要以上に高価な家や服を消費する行動のことですが、要するに、人間は金持ちになるだけでは満足できないってことですね。自分が金持ちであることを見せびらかして、周囲の人間からうらやましがられることでようやくこころが満たされるという、人間の業というか、承認欲求というか、そんなような学説。
今回の再読では、前半部は過去のおさらいみたいな感じで読み進めました。しかし後半に入ると、以前は気づかなかったおもしろさに引きこまれたんです。ヴェブレンの主張には、いまの自分と重なるものがかなりあります。
ヴェブレンは知性と理性を重視しており、野蛮で略奪的な行為と不合理さを嫌ってます。それは戦争のみならず、経済活動においてもあてはまるとしていたようで、人類の知的水準が向上し、みんなが定量的な根拠にもとづいて因果関係を考えられるようになれば、経営者にとっても労働者にとっても望ましい経済環境が実現できるだろうし、略奪的で不公正な旧時代の習慣はなくなるだろうと希望を持ってたフシがうかがえます。
でも残念ながら100年後のいまも戦争はなくならないし、不公正な経済格差は開くばかり。
そんなヴェブレンが後半でディスりまくってるのが、スポーツとギャンブルと宗教。私もまさにその3つが好きじゃないので、若干の偏見とブラックユーモアを含ませながらそれらをこきおろすヴェブレン節を堪能しました。
略奪的な競争に向かわせる気質が基本的には幼稚なものであることは、すでに言及した略奪行為よりも狩猟などのスポーツのほうによく当てはまるし、すくなくとも明確に表れている。だからスポーツへの熱中は、精神的発達が途中で止まってしまったことを如実に表していると言えよう。スポーツや賭け事を好む人に固有のこの幼稚な気質を見抜くには、あらゆるスポーツに見受けられるこけおどしの要素に注意するとよい。
世間では、スポーツに打ち込む生活が育てる男らしさには褒めるべき点がたくさんあると評価されている。独立心や仲間意識があるというのだが、これはかなりいい加減な言葉の使い方である。これらは、見方を変えれば好戦的とか派閥意識と呼ぶこともできよう。
スポーツ好きや賭け事好きが、運や偶然、すなわち予期せぬ必然性を信じるのも、未分化で原始的なこのアニミズム感覚と言えよう。
スポーツと賭け事を好む人間は幼稚だなんて、けっこうストレートな悪口ですよね。
でもいわれてみれば、スポーツ選手とギャンブラーには、げん担ぎとか願掛けとかが好きな人がたしかに多い気がしませんか。
本来、スポーツもギャンブルもデータに基づいて因果関係を導き出さねば勝てないはずです。そういった知的努力を忌避して、真逆ともいえる超自然的、宗教的な力、直感に頼り、勝つためには運気を上げよう、パワースポットに行こう、みたいな人たちに関しては、知性と精神のレベルを疑わざるをえません。
怪しい宗教はまさにそういう人たちを食い物にしてカネをむしり取ってるわけです。そういえば旧統一教会の教祖夫妻はラスベガスのカジノで豪遊するのが好きだったと報道されてました。やはり、スポーツとギャンブルと宗教には、何か相通ずるものがあるのかもしれません。