『読むワイドショー』著者解説
ちくま新書
税別860円
2023年2月発売
今回のテーマは、テレビと芸能。身近なようでいて、じつは知らないことだらけ。
でもそれを詳しく調べようとしても、ネットは使いものになりません。ネットには近年の情報はたくさんありますが、昭和以前の情報となると浅いものや個人の思い出話ばかり。個人が語る思い出話は調査の糸口にはなるのですが、記憶は年月とともに脳内で改ざんされてしまうので、必ず文献で裏を取る必要があります。
私が書籍の書き下ろしを中心にやってるのは、納得のゆくまで調べた上で書けるからです。それともうひとつ、意外かもしれませんが、いまもっともタブーが少ない表現メディアが書籍だというのも理由です。雑誌やネットメディアには、スポンサーへの配慮と、炎上を極度に恐れる事なかれ主義が蔓延していて、書いてはいけないタブーがやたらと多いんです。
テレビや芸能に関するどうでもいいようなことでも、あらためて調べてみると意外な事実が山ほどあるし、些細に思えることから、人間の本質や社会の闇が見えてきたりもします。
さて、以前からの読者のかたなら、今回、私のプロフィールが「日本文化史研究家」というシンプルなものになってることに気づくかもしれません。
ちょっと思うところがあって、デビュー以来ずっと使ってきた架空のふざけたプロフィールをいったんやめることにしました。
というのは、読者もマスコミも含め社会全般で、そういうおふざけを受け入れてくれる余地がなくなってきたような感がするんです。反社会学講座をはじめたときには、現実のねじれみたいなものを表現しようと思いました。学者や有名人が実名で書いてる本に根拠のない憶測やデタラメが書かれてることもあるなかで、デタラメなプロフィールの無名の人物が根拠のある事実を書いていたらおもしろかろう、てな感じで。
そういった知的な遊びごころを理解してくれる粋人といいますか、知性と理性に余裕のあるオトナが減ってしまった気がします。ふざけたプロフィールのヤツが書いたものは取りあげない、紹介しない方針のメディアもあるようです。そんなんで自分の著書が黙殺されてしまうとしたら、それは本意ではないですし。
よのなかがどう変わろうが、自分のプロフィールが変わろうが、自分で調べてわかったおもしろい事実をみなさんと分かち合いたいという私の執筆スタイルは、これからも変えません。
どこから来たのか、どこへ行くのか、コメンテーター
まずは、コメンテーターって必要なのか? という、誰もが思う素朴な疑問から。司会者に「どうですか?」と問われれば、自分の専門分野と無関係の事柄であってももっともらしく語ってしまう。そんなコメンテーターなる立場の人たちはいつごろ出現したのでしょう。
無責任にいいたい放題のタレントコメンテーターのルーツは、某人気番組のレギュラーだったあの芸人?
1950年代、評論家の福田恆存が「文化人」を批判した文章は、そのまま現代のコメンテーター批判として通用します。当時の大衆が文化人に求めていたのと同じ役割を現代人はコメンテーターに求めているようです。
画面隅の小窓はいつからワイプと呼ばれるようになったのか
日常的にテレビを見てる日本人なら誰もが知ってる、ワイプという映像表現。小さな窓をのぞいてみれば、その向こうには興味深い文化史が見えてきます。
もともとは、映画で画面切り替えに使われる手法でした。それをはめ込み窓として応用する手法は日本のテレビが独自に発展させたのです。
技術的に完成の域に達したのは地デジ化後のことでしたけど、それ以前、50年代からテレビ各局がワイプ活用の試行錯誤を重ねていたことは、あまり知られてません。それはけっこう不評と失敗の連続で、フジテレビには社史にも書けない黒歴史があります。
逮捕された歌手のレコードが回収された最初の例と、ちょっと長めの後日談
歌手やミュージシャンが麻薬などで逮捕されるとCDは店頭から回収され、配信も停止されます。そのたびに音楽ファンからは疑問と不満の声が上がりますが、そうなったきっかけまで調べた人はいませんでした。
私が今回調べたところでは、殺人と死体遺棄で逮捕された歌手のレコードが回収されたのが最古の例でした。
事件の重大性から、仮名やイニシャルにすることも考えましたが、ご本人が亡くなる直前に雑誌取材で獄中生活について語ってます。本人が事件のことをタブーとしてなかったことがあきらかなので、実名で書きました。
しかしこのとき、レコード会社はレコードを一枚も回収できませんでした。事件報道直後から客がレコード店に殺到し、すべて売れてしまったのです。
当時も逮捕者のレコード回収の是非は週刊誌などで議論されましたが、それより問題とされたのは、事件を報道するマスコミの過熱ぶりでした。お笑いの人たちは、むかしのテレビバラエティはむちゃくちゃだったとよくいってますが、むちゃくちゃだったのは報道も一緒。非人道的な取材攻勢も昭和史の悪しき一断面です。
あなたの知らない略奪婚の実態
ちょっと下世話なネタも入れときましょう。みなさん、けっこうお好きでしょ? といっても私は民俗学的なアプローチでマジメに略奪婚の実態に迫りました。なんと80年代後半とそれ以前とでは、日本人にとっての「略奪婚」のイメージはまったく異なっていたんです。
たとえば、黒柳朝
(黒柳徹子さんのお母さん)は、自分の結婚は略奪婚だったと堂々と語ってます。でもその経緯を知れば、現代日本人が想像する略奪婚とは別物だったことがわかります。
ラジオからテレビへ ――新聞ラテ欄から見える歴史――
先日、『ザ・テレビジョン』が週刊誌をやめて月刊誌だけになると発表され、昭和のテレビっ子世代にはちょっとした衝撃が走りました。
テレビやレコーダーで番組表が確認できるし、ネットでも見られるいまの時代、仕方のない流れなのでしょう。むかしはテレビ欄があるから新聞をとっているという人もけっこういたんですけどね。
そこで懐かしさもあって、新聞ラテ欄
(ラジオ・テレビ欄)の変遷を軽く調べて見ました。
新聞の最終面がラテ欄になったのは70年代。私はそれがあたりまえだと思ってましたが、自分のこども時代にようやくそうなったのだとはじめて知りました。それ以前は定位置がなく、流浪のページだった時代が長く続きました。
さらに興味深かったのは、ラジオ開局当時のラジオ欄。多くの新聞がラジオを軽視・無視・敵視していたなか、読売新聞だけはラジオ欄を2ページぶち抜きで大々的に始めていたのでした。
ニュースショーが終わり、ワイドショーが始まった
日本最初のワイドショーとされるのが『木島則夫モーニングショー』。この番組についての情報もネットには浅いものしかないので、文献を漁るしかありません。初代プロデューサーが書いた詳しい回顧録はテレビ文化史を知る上で一級品の資料です。それをさらに補完すべく、当時の新聞・雑誌での取りあげられかたや投書欄での一般人の反応、類似番組についても調べました。
後発の『小川宏ショー』が17年続く長寿番組になったのに、元祖・木島則夫の番組はたった4年で終了し、司会者が交代します。両番組の違いはいったいどこにあったのかを探ります。
政治を語る芸能人
近頃の日本では、芸能人がちょっとでも政治的な発言をするだけでムチャクチャ叩かれようになりました。「放送は政治的中立性を守らねばならない」という原則論が幅をきかせるようになったせいで、政治風刺漫才や風刺コントなどは事実上放送禁止扱いです。
しかし政治的中立性なんてものは実現不可能な幻想にすぎないことを、むかしから多くの論者が指摘しています。なぜならそれを厳守する唯一の方法は「なにもいわないこと」だけだから。それは言論の自由という大原則に反します。
1960・70年代には、芸能人が日常的に政治発言をしていましたし、大衆もそれを容認してました。テレビの公開収録でトップ・ライトの政治風刺漫才に観客が爆笑し、クレージーキャッツが毎日生放送で演じる政治風刺コント番組も高視聴率。ホームドラマのお母さん役イメージが強かった女優・森光子でさえ、三木首相との懇談会ではロッキード事件の真相解明をうやむやにしないでほしいと釘を刺してます。
大衆が支持した一方で、政治家からの言論弾圧があったのも事実です。なかでも言論弾圧と戦った反骨の芸能人として有名だったのが、三木鶏郎。軽快な歌と政治風刺コントがウリだった聴取率70パーセント越えのラジオ番組『日曜娯楽版』が打ち切られるまでの詳しい経緯を知ると、言論弾圧の陰湿さに寒気がします。
もう一人の反骨芸能人が、前田武彦。いまとなっては知る人も少なくなったし、知っていたとしても、共産党バンザイ事件でテレビから干された左翼タレント、みたいな偏見で語られがち。私もその程度の認識しかなかったのですが、調べてみるとバンザイ事件はかなり誤解・曲解されてました。
前田武彦の人物像は、アンチの人たちが意図的に貼ったレッテルで歪められてしまいました。正当に再評価されることを望みます。