こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。地方紙に『読むワイドショー』の書評が出たりしたおかげか、ネット上のレビューや感想がだいぶたまったようなので、ざっと目を通してみました。書いてくれたみなさん、ありがとうございます。
読んだかぎりでは、私の意図をきちんと読み取ってくれた読者が多いようなので、ほっとしています。
今回から2回にわたって、『読むワイドショー』の感想やレビューについて思うところをお話しするのですが、その前置きとして、いっておかねばならないことがあります。
●誤読され続ける『反社会学講座』
私の著作に対するレビューや感想だけでなく他の作品に対してもですが、広い意味での批判や炎上といった事例は、誤読がもとになってることが少なくありません。どこをどう読めばそんな解釈ができるの? と、批判してる側、炎上させてる側の読解力を疑ってしまう事例をしばしば見かけます。
思考力の乏しい人はその欠如を信念で穴埋めしてしまいがちです。思考力と読解力は密接に関連する能力なので、思考力がない人には読解力もありません。
その文章に何が書かれているのか、何を主張してるのかを客観的に読み取る能力が読解力です。誤読するのは、最初から自分の価値観・主観・信念に思いっきり引き寄せて文章を読んでしまうからです。つねに自分の価値観の正しさを証明したいという気持ちが強すぎて、文意を自分に都合よく勝手に読みかえてしまうんです。いい方向にも悪い方向にも。
『反社会学講座』は社会学を全否定している、なんてのが誤読の最たる例でして、そんな解釈をする人たちがいまだにあとを絶たないのは残念です。
説教じみた小難しい話はできればしたくないし、おもしろかったドラマとか本の話をしてるほうが楽しいですよ。でも、あまりにも思考力・読解力に問題のある人が多すぎて、放置しているのはさすがに無責任だと思うようになってきたので、教育的観点から、ここらでダメ出しをしておきます。
『反社会学講座』は社会学の悪いところを批判しつつも、社会学的なものの見かたを伝える入門書にもなってます。だから出版当時、そこをちゃんと読み取ってくれた本職の社会学者のみなさんから、おもしろがってもらえたんです。
ある学問をまるごと全部否定できるなんて、本気で思ってます? それ、異世界転生と同じくらい非現実的なことですよ。
自分が好きなマンガやアニメがフェミニズム社会学者に批判されたことでアタマに来て、社会学を全否定して溜飲を下げている、という程度の人が多いのでしょう。でも相手を否定すれば自分の正しさが自動的に証明されるわけではないんです。相手もあなたも間違っている可能性があるのですから。
そこがわかってないなら論理学の基礎だけでもいいから勉強してください。自分は絶対正しいという信念だけではなんの証明にもなってません。他人が提示した事実にフェイクだと難癖つけるだけでは否定したことにはなりません。自分の正しさは、自分で証拠を揃えて自分で証明するしかないんです。
私は社会学もフェミニズムも全否定などしてません。それらを否定することを私に期待して著書やツイッターやブログを読んだら、必ずがっかりするよ、と予告しておきます。それどころか、自分が望む答えをくれない私を嫌ったり憎んだりするようになるでしょう。
私はブログやツイッターから収益を得てないので、読者が喜びそうなウソを書いて媚びる必要はありません。政治も宗教も伝統も常識も特別扱いはしません。間違いが確認できれば批判します。これからも自分で調べた事実と、事実にもとづいて思考したことをお伝えしていきます。
●批判に反論しない理由と反論できない理由
今回、私としては珍しく、批判的なレビューへの反論・ダメ出しもしようと思います。
私は自著のレビューや感想にいちいち反応しないことにしています。むかしは批判に反論してたけど、それをやってると、おい、お前らの批判はいつも見張ってるからな、みたいな威圧感を醸し出してしまいそうなので、自由に感想を書いてもらうためにも、反応しないことにしたんです。
批判に反応しない理由とはべつに、反応できない理由もあります。私への批判はほぼすべて、抽象的な印象論・感情論に終始しています。表面上はクールなレビュアーを気取っていても、私が突きつけた事実のどれかに自分の価値観を傷つけられて、はらわた煮えくり返ってる本心が透けて見えます。
だけどその不満の正体をあきらかにしてくれないのがズルいんです。どの記述、どの事実が気に食わないのか、なぜ気に食わないのかを具体的に教えてくれないと、まったく参考になりません。何に怒ってるのかを具体的に説明してくれない人に対しては、反論のしようがないんです。
具体的な反論もたまにあるんですけど、手持ちの弱~い手札を1枚か2枚振りかざすだけで論破したつもりになってたりすると、それはそれでムカつきます。
こっちはいろいろ調べた上で、100の事実を並べ、それにもとづいて考察しています。あなたはそのなかのひとつを引っかいたくらいで、あとの99の事実には反論も否定もできてませんよね。正しさの質も量もこちらのほうが圧倒してるんです。あなたは100対1でコールド負けしてますよ、くらいのイヤミをいいたくもなります。
でもそれをあまりおもてには出さないよう自制してるんです。ほら、たぶん、いまくらいの反論でも、うわ、パオロぶち切れてんじゃん! と思った人がいるんじゃないですか。この程度の軽いジャブでたじろがれてもねえ。ちょっとした意見の応酬にもおびえて、議論や対話を極度に避ける人にも問題があります。
批判をダイレクトにこころで受けとめてすぐに傷つくのはやめましょう。批判はまずアタマ(知性)で受けてから、こころに落とし込む練習をしてください。それから調べて反論しても遅くないんです。条件反射で反論できる人は、カッコよさげに見えますが、あとでよくよく考えると論点ずらしの詭弁だったりします。
●ラジオ黎明期の話への反響
とりあえず批判は後回しにすることにして、まずは賛意のほうから。
新聞のラジオ・テレビ欄の変遷について書いた章で、ラジオ黎明期の話をちょっとだけしたのですが、ここに興味を持ってくれたかたがけっこういました。
テレビが家に来たときの話は、昭和ノスタルジーの定番テーマなんで飽きるほど聞いてますが、ラジオが家に来た話って聞いたことなかったんです。まあ100年前のことなんで、話せる人がもういないってのもありますが。
だから開局当時のラジオは人気がなかったのだろうと決めつけてました。ところが当時の新聞記事などを読むと、ラジオは開局当初から想像以上の盛り上がりを見せていたことにビックリしました。
早く放送を始めろと開局前の放送局に連日詰め寄るラジオマニアたち。ラジオを敵視する新聞社が多いなか、読売新聞だけが他紙に先駆けて紙面を2ページも割いてラジオ欄を設けます。ラジオ受信機が売れまくり、製造が追いつかないとメーカーが嬉しい悲鳴を上げる裏で、売上が激減した蓄音機メーカーはリアルな悲鳴を上げてました。
こんなに社会を盛り上げていたラジオですが、数年後には戦時体制で放送の自由を奪われ、大本営発表のための道具になっていきます。放送の自由が民主国家にとっていかに大切なものであるか。そして、その自由はいとも簡単に奪われてしまうのだと、歴史が教えてくれてます。
ラジオ黎明期の悲喜こもごもを群像劇のドラマやマンガにしたら、けっこうおもしろそうですけどね。
●放送・報道にかけられた政治圧力の歴史への反響
しかし、やはりというか狙い通りではあるのですが、感想でもっとも多かったのは、ラジオ・テレビ放送への執拗な政治圧力・政治介入の歴史について言及したものでした。はじめて知った、こんなヒドかったのか、などと、みなさん衝撃と憤りを感じたご様子。
と同時に、政治圧力や介入にひるむことなく、政治批判や政治風刺を続けていた骨のある芸能人が、昭和時代までは大勢いたという事実にも驚いたようです。
本書の発売後に放送法問題が取り沙汰されましたけど、あの際に、戦後の日本で放送がどれだけの政治圧力と戦ってきたか、あるいは自主規制がどうやって進んだのか、その歴史を詳しく検証した報道番組は、なかったように思います。放送されるなら参考のためにぜひ見たいのでテレビ番組表を毎日チェックしてましたが、私が知るかぎり、東京圏の放送局でやってた様子はありませんでした。
自由というものは権力によっていとも簡単に奪われてしまうし、いったん奪われたら取り戻すのは非常に困難です。それは過去の歴史が教えてくれてるし、数年前にも香港で起きたばかりじゃないですか。
自分たちの首が絞められようとしてるのに、日本のテレビ局には強烈な正常性バイアスがかかっているのか、問題を平気でスルーします。放送の自由が奪われた歴史の事実を視聴者と共有し、一緒に考えようなんて気概もないようです。
だから『読むワイドショー』を読んで、歴史の事実を初めて知って驚いた、って人がけっこういたとしても、不思議ではないのでしょう。
テレビを観ないネット派の人たちにとっても他人事ではないですよ。いまや独裁政権が放送だけでなくネットの言論も規制するのは世界の常識なんですから。
後半は明日アップします。
[ 2023/06/09 21:14 ]
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