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被害者の存在を消すな

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。先日、パソコンのマウスが壊れたので買いに出たら、平日の昼間なのにやけに街なかに人が多い……そうか、世間はいま春休みなのでした。

●最大多数の最大幸福

 1月末にアップして反響を呼んだ記事「松本人志さんの罪についての考察と提案」のなかで私は、大衆なんてのは薄情なものだから、1年も経たずに松本さん不在のテレビにみんな慣れてしまうだろうと予告しました。
 1年どころか、騒動勃発から2か月も経たぬうちに、早くもそれが現実になってしまいました。テレビ界もお笑い界も何事もなかったかのように通常営業を続けてます。私はもともと松本さんの出演番組をほとんど見てなかったので、テレビが急につまらなくなったとは全然思いません。実際、松本さんが出なくなって視聴率が下がった番組はほとんどないそうです。
 松本さんがいなくても何も変わらないことが証明されてしまったし、多くの視聴者はそれをすんなり受け入れているのです。
 そもそも、松本さん見たさにテレビを見ていた人がどれだけいたのか、疑問です。松本さんがカリスマだったというのは30年くらい前の話であって、現在の大多数のテレビ視聴者にとって松本さんは、好きでも嫌いでもない、いてもいなくてもどっちでもかまわない存在でしかないはずです。

 ていうか、私も含めてですが、お笑い好きの人たちが最初にこの件を知ったときの感想は、「やっぱりな」だったんじゃないですか。というのは、吉本芸人は以前から、みんなで部屋に女連れ込んだけど、やろうとしたら逃げ出したから冷凍肉投げつけてやった、みたいなゲスな逸話を笑い話として何度も披露してたんです。そういうのはお笑い好きの間ではわりとおなじみの話だったので、今回の告発を知っても「やっぱりああいう話は実話だったんだな」と受け止めるだけで、べつに驚きはしなかったはずです。
 吉本芸人だけではありません。東国原さんは芸人だった1990年に雑誌『微笑』でタレントの千堂あきほさんと対談し、「オレなんかも、やむにやまれないって感じで、痴漢しちゃうことあるもんね」といってます。痴漢やのぞきを何度もした経験をおもしろおかしく自慢しているのです。
 これも雑誌の捏造だと東国原さんは批判するのでしょうか。あるいは場を盛り上げるためのウソだったと釈明するかもしれませんが、だとしても、このときの東国原さんに、痴漢被害者がどんなツラい思いをしているかという想像力が欠けていたことは間違いないし、30年以上経ったいまも、松本さんを告発した女性の存在を完全に無視してます。

 ともあれ、テレビが通常営業を続けている現実によって、松本さんの復帰を強く願ってるのは少数の人たちにすぎないことがはっきりしました。彼らは執拗に大声で叫び続けてるから目立つだけです。
 カリスマなんてものは、しょせん虚像にすぎません。表舞台に立ってるときは、この人がいなければ業界は成り立たない、などとちやほやされますが、いなくなっても、どうということはありません。昔、カリスマ美容師なるものが流行りましたけどすぐにブームは去り、そのあと大衆の支持を得たのは、無名の理美容師が働く1000円カットでした。松本さんが去ったいまは、まだ無名だけど実力のある芸人にとってはまたとないチャンスです。私は松本さんよりもそういう人たちを見たいです。

 松本さんが数年後にテレビに復帰しても、松本さんではもう笑えないでしょ。たとえ裁判で勝ったとしても、妻子のある身でありながら、性犯罪と紙一重の下劣なやり口で女漁りを執拗に繰り返していた人という事実は消えません。そんな初老の男性がテレビでがんばっておちゃらけたり、愉しそうに他人をイジったりしても、それ自体が地獄絵図です。松本さんの復帰を望む人たちはそれを見て無邪気に笑い転げるのでしょうか。だとしたら相当悪趣味です。
 松本さんはもうこれまでと同じように他人をイジることができないし、松本さんをシモネタでイジってもヘンな空気になるだけです。つまり、もう松本さんの笑いはテレビでは成立しないんです。
 なので、こころあるテレビ業界人のみなさんは、松本さんをこのままひっそりとフェードアウトしてあげてください。それが本人のためでもあるし、ご家族のためでもあるし、性被害を告発した女性たちのためでもあります。
 松本さんがまだお笑い芸人でいたいのなら、舞台もしくはネット動画に活動の場を移し、テレビとは違う新しい笑いを存分に追求してください。コアなファンは喜んでついていくだろうし、見たくない人は一生見なくて済みます。いうなればそれが、最大多数の最大幸福となる解決法です。

●常識的な倫理観に自信を持ってください

 私は1月末にブログ記事を公表したあと、補足をしただけで、あとは何も書かずに放置してました。主要な論点についてはだいたい書いたつもりだったので、もうじゅうぶんだろうと判断したからです。
 自分のブログにはカウンターみたいなものをつけてないので、どれだけの人が読んでくれたのか不明ですが、ダイヤモンドオンラインに転載された記事は、公開翌々日の時点で200万PVを越えていたそうです。もちろん私に批判的な人が読んだぶんも含まれてますけど、ツイッターに寄せられた反響や、ツイッター上の声は圧倒的に私への賛意が多かったので、まともな倫理観を持つ日本人がまだまだ多いことに、ちょっと安心しました。

 1月の時点では、ネット上でもテレビでも、松本さんを擁護する人たちの声ばかりが目立ったので、
「あれ、松本さんに不快感をおぼえる私の倫理観が間違っているのだろうか……?」
「被害を告発した女性たちの苦しみに共感する自分は間違っているのだろうか……?」
 と少なからぬ人たちが、自信をなくしかけていたはずです。
 そこへ、正面切って松本さんらとその擁護者を批判する私のブログ記事が出ました。それを読んだ人たちが「やっぱりそうだよね、私の常識や倫理観は間違ってなかったよね」とうなずき、自信を取り戻してくれたのなら、なによりです。

 ぐうの音も出ない批判などと持ち上げられましたけど、私は常識的なオトナの倫理観と知性・理性にもとづいた正論を述べただけです。私と同主旨の意見をブログなどで述べてる人は大勢います。私だけが奇をてらった独自の正義や倫理を主張したのではありません。人間としてまっとうな正論だからこそ反論できないのです。
 人間としてまっとうな正論にムリやり反論するとなれば、極論や詭弁を弄して揚げ足を取るか、呪詛や邪言を投げつけるしかありません。実際、私に寄せられた反論のほとんどがその類だったのですが、そんな反論をすればするほど、自分たちの非人間性を世間に晒すだけなのに。
 まともに反論できないのに間違いを認めたくない意地っ張りは、開き直って非人間的で非情なワルを気取ったり、すべてを冷笑して善悪の価値判断を避けようとします。
 そういう態度は20代くらいまでなら若気の至りで済みますが、50すぎたおっさんがワルを気取ってても痛いだけでしょ。私はまっとうな正義を主張することを恥ずかしいと思わない歳になりましたし、それを偽善だとも思いません。偽善の効用については『偽善のトリセツ』(河出文庫)で詳しく解説してるので、偽善アレルギーのかたに一読をおすすめします。

 それと余談ですが、突然ブログ記事に注目が集まったことで、初めて私の名前を知った人たちが、パオロ・マッツァリーノって何者だろうと、いろいろ調べたようですね。
 とりあえず、私が内藤朝雄さんでないことだけはきっぱり宣言したのですが、それでも信じてくれない人がいるのが不思議です。
 AIにたずねたら、パオロ・マッツァリーノの正体は山本七平の息子の山本弘であると答えた、というのには笑いました。山本弘さんって、SF作家のかたですよね? だとしたら山本七平の息子ではないですよ。もちろん私と山本弘さんも別人です。
 匿名の是非については『思考の憑きもの』(二見書房)収録の「匿名が諸悪の根源なのですか?」で徹底検証してますので、匿名に批判的なかたは、こちらを参考にしてください。戦前日本の新聞雑誌の投書欄がほぼすべて匿名での掲載だったことは、あまり知られてません。

●被害者の存在を消すな

 そんな私が頼まれもしないのに、また松本さんの件についてこうして長文を書く気になったのは、どうしても見過ごせないことがあるからです。それは、被害者の存在を消そうとする動きです。
 松本さんを擁護する人たちの世界には、自分と松本さんしか存在しないのです。擁護派が見ている世界には、被害を告発した女性はそもそも存在しないことになってます。
 擁護派には告発者の家族の怒りや苦しみも見えてません。なのに彼らは松本さんの家族を心配する。ゲスな不貞行為で家族を裏切ったのは、他ならぬ松本さんなんですよ。家族に償う責任があるのは松本さんです。被害を告発した女性たちや文春に責任転嫁するのはお門違いです。
 本来は、被害を告発した女性たち対松本さんという構図で、どちらのいいぶんに正当性があるかを議論しなければいけないはずですが、擁護派はその議論になると分が悪いので、被害者の存在を徹底的に無視する戦法をとってます。被害者対松本さんでなく、文春対松本さんという構図を強調した上で、過去の誤報例を持ち出して文春は信用できないとのイメージを作り上げ、さあみなさん、文春と松本さん、どちらが信用できますか? と世間に問いかける。
 こういう目くらましに乗らないでくださいね。松本さんは具体的な証言を何一つしていないのだから、松本さんの信用度はいまだにゼロのままです。女性側は具体的な証言をしています。それがすべてウソだとする証明はないのだから、女性側の信用度は現時点ではプラスです。
 この件の主役はあくまで、被害の告発者たちと松本さんなのです。文春は、性被害という性質上おもてに出にくい人たちの代理をつとめてる立場です。
 だから、被害者抜きで議論を進めてはいけません。被害の告発者たちは存在するという前提で証言を扱い、それを崩せるか崩せないかという順序で議論を進めなければ、まともな議論になりません。
 被害の告発を黙殺したり、最初からウソ、捏造と決めつけてかかったり、被害者の存在そのものを否定したりすることは、人権無視の悪質な行為ですし、法の理念に反します。
 冤罪だったらどうするんだ、という反論がすぐに出てくるでしょうけど、冤罪は捜査と裁判が正しく行われれば晴らせます。濡れ衣をかけられて失った名誉は回復可能です。でも、被害者の告発が黙殺された場合、捜査も裁判も行われず、事件の真相は闇に葬られ、被害者は永遠に救われません。冤罪をなくしたいのなら司法制度の欠陥を批判すべきです。冤罪の可能性を理由に被害の告発を黙殺することは許されません。

●週刊文春の記事を再読する

 裁判が始まったタイミングに合わせて、昨年末発売の『週刊文春』1月4・11日号に載った第一報記事が、文春オンラインで公開されました。これまでは有料会員しか読めなかったものを誰でも読めるようにしたようです。細かく分割されて順序がちょっとわかりづらくなってしまってますが、雑誌を未読だったかたは読んでみてください。というのは、この記事を読まずに、ネットやテレビからのあいまいな伝聞情報だけをもとに意見を述べてると思われる人が非常に多かったからです。
 ただし、先に警告しておきます。感受性の強いかたは、心してお読みください。私でさえ最初読んだとき、松本さんらの行為が想像を上回るグロテスクなものであることに驚いたくらいです。
 その不快感の正体については『サンデー毎日』2月18・25日号の記事が参考になります。松本さんらの行為では、人間心理を悪用して相手を罠にはめ、抵抗できぬようにするためのテクニックが多用されていると、性加害者の治療に携わっている斉藤章佳さんと、性暴力被害者の支援をしてきた臨床心理士の岡本かおりさんが解説しています。
 私はそれに加えて、松本さんの強烈すぎる支配欲も不気味に感じました。すでに誰もが認めるほどの、金も地位も名誉も手に入れた成功者であるにもかかわらず、素人女性や後輩芸人という、あきらかに自分より格下の人間を意のままに支配しなければ満足できないのでしょうか。

 この第一報記事を読んで、A子、B子さんの告発はウソだ、これは文春の捏造で、そんな女性たちは存在しない、と主張する人がいたら、その人の読解力と人間性を疑います。
 私は先日、週刊文春などの続報をまとめて読み直しました。それでも、私の基本的な意見は揺らぎません。文春の記事に登場した告発者は、被害を受けた当事者と被害を目撃した人をあわせて、少なくとも十数人はいます。実名で告発した人もいます。告発者たちの証言には一定のパターンが存在しますし、問題となるほどの破綻や矛盾はありません。面識のない複数の女性たちが口裏を合わせて同じことをいうのは、常識的に考えて不可能です。裁判官もおそらくそう判断するでしょう。
 それらすべての証言を文春の捏造だと決めつける主張のほうが陰謀論的でムリがあります。私は記事のすべてが事実だといってるわけじゃないですよ。常識的な読解力と倫理観をお持ちのかたが読めば、大筋で事実だと考えるのが自然だといってるんです。
 今回の件のように、大勢の記者や編集者が関わっている件で組織的に捏造するというのはちょっと考えにくい。それがバレたら致命的なダメージを負いますから。もしも捏造だったら、とっくのむかしに文春の社員から内部告発が出ていてもおかしくありません。
 被害者の告発証言を文春が勝手に書きかえたり、大げさに話を盛っているのなら、告発者の中からも、文春の対応を批判する声が出てるはずです。でもそういう人が現れてないってことは、告発者たちと文春の間に信頼関係があるということです。

 私は記事内容の正しさを論じてるだけなのですが、お前は文春の味方か、と的外れなケチをつけてくる人がいます。だったら松本さんはむかし週刊朝日に連載していたのだから朝日新聞社の味方ですか。
 敵か味方かという発想でしかものごとをとらえられない人は、容易に陰謀論的イデオロギーに陥ります。そうなってしまった人は、敵の言葉をすべてウソと決めつけて全否定し、反論には一切耳を貸さないので、取りつく島がありません。

 時効で罪を問えないから調べる必要はないというのは形式的な法律論です。ジャーナリズムや歴史学や社会学に時効はありません。法律ができない過去の疑惑検証は、ジャーナリズムや歴史学、社会学の守備範囲であるともいえます。

●中立・公平・不偏はありえない理想論

 擁護派は松本さんに批判的な人たちに対し、「文春の報道を事実だとした上での発言は公平性に欠ける」みたいな決まり文句で攻撃してくるのですが、それをいうならあなたがたも、何の根拠もなく松本さんが無実だと決めつけて擁護してるのだから、公平性に欠ける点では一緒です。
 また、松本さんへの批判的報道を「私刑」という強い言葉でなじる人もいますが、それも一方的です。被害を告発した女性たちがネットで受けた大量かつ悪質な誹謗中傷も、間違いなく私刑です。被害者への誹謗中傷は棚に上げて、松本さんへの批判のみをおおげさに私刑となじるのは、それこそ公平性に欠けた主張です。自分が偏向してることは無視して、他人にだけ厳正な中立公平を求めるのも詭弁術のひとつなので、知っておいたほうがいいでしょう。
 公平性、中立性、不遍性は、重要で有用な概念です。目標とすることは間違ってませんが、それらは重要な目標でありながら実現不可能という矛盾した性質を持つのです。人間にはそれぞれ異なる主義主張があるのだから、完璧な公平・中立・不偏なんてものはありえません。事実の追及よりも公平・中立・不偏を重視してしまうと、事実や現実を見る目が歪み、公正な判断ができなくなってしまいます。
 公平性、中立性、偏向という言葉で報道機関を批判してる人にうかがいます。
「完全に公平中立で偏向のない報道機関は、世界中のどこに存在するのですか?」
 ありませんよね。報道機関がよのなかのすべての事件、事象、情報を報じることは不可能だからです。すべてを報じようとしたら、万引きや自転車盗の記事ばかりになってしまいます。
 なので報道では必ずなんらかの基準による取捨選択が行われます。何を報じ、何を報じないか、それによってメディアの個性、方向性が決まるのです。公平中立で偏向のない報道が不可能だからこそ、さまざまな報道メディアが存在する理由になります。我々は複数のメディアの報道を比べて何が真実かを判断するしかありません。
 偏向のない報道という実現不可能な理想を掲げ、文春はそうなってないから偏向報道だ、などと批判するのは愚論です。そんな批判を真に受けたら、すべての報道は偏向だから誰も何も報道できないことになってしまいます。

●記事内容を否定する証言について

 霜月さんという女性がツイッターで、文春でJ子さんが証言した会に自分も参加していて、J子さんの証言はウソだと主張しています。彼女の証言をテレビが取りあげないのは偏向報道だと主張する人がいますけど、私は偏向だとは思いません。
 彼女の主張は決定的な反論になってないし、肝心な点への言及を避けてるフシがあることは、ネット上でも多くの人が指摘しているとおりです。週刊文春も3月21号で反論してます。そこでは彼女に乗っかって文春を叩いてるたむらけんじさんのウソが、逆にJ子さんによって暴かれてます。
 しかも霜月さんは、テレビで松本さんを見たい、松ちゃん早く帰ってきてー! みたいな絶叫コメントを何度も書くほど偏った立ち位置の人なので、松本さんに有利になるよう、自分の過去の記憶を(悪意でなく無意識に)修正してしまってる可能性は否めません。そこんところを確かめようにも、取材には一切応じないと宣言しています。テレビ局がそういう人の主張を取りあげるのを見送ったとしても、それは妥当な判断であり、偏向ではありません。

 またジャニーさんを引き合いに出しますが、仮に、「ジャニーさんと一晩同じ部屋で過ごしたけど何もなかった」と証言する男性が現れたとしても、他の多数の告発がすべてウソだということにはなりません。たったひとつの反証例でジャニーさんの潔白が証明されるわけではないのです。その日はたまたま何もなかったというだけのこと。犯罪者はつねに犯罪者なのではありません。犯罪をしない日だって、普通にあるんです。
 少年時代にテレビで見たコントレオナルドのコントでは、レオナルド熊さんが演じる父親に、息子役の石倉三郎さんが「父ちゃん、授業参観には来ないでくれよ」と頼みます。すると父親は、「なんでだ。オレが泥棒だからか」。
 私は爆笑すると同時に、人間観が変わるほどの衝撃を受けました。そうか、泥棒はつねに悪人ではないのだ。泥棒を生業としてる犯罪者にも家族がいて、盗みを休んでこどもの授業参観に行って善人の顔をしてる日もあるのだ。

 霜月さんはその場で起こったことのすべてを目撃できたわけではなく、自分が見た範囲のことを自分の解釈で語ってるだけです。松本さんについてもごく限られた面しか見ていないのに、それだけで善人かどうか、無実かどうかを判断できるわけがない。
 彼女が見ていなかったところで何が起きていたかは知るよしもないし、J子さんは霜月さんが見ていなかったものを見たのでしょう。たとえば、J子さんは同席していた素人女性を銀行員だったといってますが、霜月さんはそれをご存じなかったようです。
 霜月さんの主張をウソだと決めつけてるのではありません。じゃあ、100%正しいことにしましょうか。それでも数ある告発のうちのひとつを否定しただけにすぎないので、それによって松本さんが潔白になることはありません。他の告発はすべて生きてます。
 松本さんらが普通に飲み会だけで終わらせた日があったとしても不思議ではないのです。霜月さんが参加しなかった日に性加害が行われていた可能性を、霜月さんは否定できません。その日たまたま、たむけんタイムがなかったとしても、他の日にあったという複数の告発と矛盾はしないのです。
 そもそも不思議だと思いませんか。告発者は少なくとも十数人いるのに、なぜ記事内容を否定する証言者は霜月さんひとりだけしかいないのですか?

●紹介しそびれていた良書

 さて最後に、今回の問題を考える際に参考になる本を紹介しておきます。

『痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学』牧野雅子 エトセトラブックス

 この本で扱ってるのは痴漢だけですが、軽いものとはいえ、痴漢はまぎれもなく性犯罪ですし、痴漢に関する言説や態度の多くは他の性犯罪にもあてはまります。なので性犯罪について考えるための入門書としても本書は優れていると思います。
 薄めで読みやすい本ですが、実証的な研究書なので、読んで得られるものが非常に多いのです。警察に開示請求して引き出した資料や、統計、新聞雑誌記事による検証であきらかにされる痴漢の実像が、世間の人たちの思いこみとかなり異なることに驚くでしょう。
 最初に読んだとき、私はほぼ一気読みしてしまいました。今回読み直して、これまで紹介しそびれていたのを申し訳ないと反省したほどの、社会学の良書です。

 著者の牧野さんは、警察官から犯罪学の研究者になったかたです。なので、痴漢に関する統計と警察の捜査実態の説明でも、実際の被害届がどう受理されるか、調書がどう取られるかなど、説明が非常に具体的です。
 しかも牧野さん自身が新人警察官だったとき(たぶん80年代)に電車で痴漢被害に遭っているのです。警察官・被害者双方の視点から語られる事の顛末はとても興味深い。犯人がつかまったものの、署内では奇異の目で見られるし、調書を作る過程で捜査員がそれとなく、加害者を訴えて事を荒立てなくてもいいんじゃないかと圧力をかけてきて、結局訴えるのをあきらめたそうです。
 私がブログ記事で、性被害の届け出はほとんど受理されないし、裁判まで行き着くのは被害全体の2%という試算データを紹介したところ、そんなことはないと、やっきになって否定しようとする人たちがいました。でも元警察官の牧野さんが、性被害を警察に届け出ても、内部で握りつぶされてしまうことがあるという実態を暴露してるんです。痴漢の被害届が出されるのは全体の1%程度だとする鉄道警察の試算もありますし、性被害が裁判で裁かれるのは2%とした試算も現実味のある数字だと思われます。

●性犯罪に寛容なところを見せるのが男らしさというカン違い

 さらに興味深いのが、この本の第2部です。
 戦後から現在まで、痴漢が新聞雑誌でどのように語られてきたかが検証されてます。ちなみに、先ほど引用した東国原さんの例もここで取りあげられているものです。
 他のことではまともな発言をしている1960年代の作家や評論家でも、痴漢に関しては堂々と擁護・容認発言をしてることに驚き、がっかりしました。女は痴漢されることを待ち望んでいるのだから、やってやるのがサービスなのだみたいな暴言を、知的水準が高いはずの人たちが平気で口にしてしまうあたりが逆に怖い。
 ただ、それがどこまで本心だったのかは、疑問です。多くの男性にとって、痴漢擁護発言は、同じ男性たちに向けた見栄、虚勢ではなかったか。
 これは痴漢ばかりでなく、性犯罪全般にあてはまります。性犯罪に目くじらを立てる男はヤボなヤツ、カタブツ、フェミニストぶっているヤツ、であり、強いオトナの男なら、性犯罪に寛容な態度を示すのが当然だ。そういう共同幻想による文化的圧力を、古来、多くの男性が受けてきたのではなかろうかと。
 むかしから、英雄色を好む、などといわれます。金や地位を手にした成功者たる男は、複数の女たちを支配する性豪でもあるのだ、という常識が、まことしやかに言い伝えられてきました。
 飲む打つ買うが男の甲斐性、妾を持てて一人前、みたいな無頼イメージがまかり通ってたことで、昔の男はみんなそうだったと思ってるかたも多いかもしれませんが、実際には、性的にマジメな男性や、それほど性欲の強くない男性、女郎買いをしたことのない草食系みたいな男性は戦前から普通にいたのです。
 でも、性犯罪の被害者女性に同情的な発言をしたら、お堅いヤツ、女々しいヤツとバカにされかねません。そう思われたくないために、性犯罪に寛容なところをアピールして強い男、無頼のふりをして、虚勢を張っていた人が多かったのではないでしょうか。
 今回、松本さんを擁護する男性の意見を読んでいて、私は同じ印象を受けたんです。彼らは、松本さんらの行為は性犯罪ではなく、一般社会の男なら誰もがやってる普通の女遊びだ、みたいに矮小化して、それに対する寛容さをアピールすることで強がっているだけではないか。

 なかでも違和感をおぼえたのは、男の生きづらさみたいなことを主張してる人たちのなかに、松本さんを擁護してる人がいたことです。それは完全に誤爆というか自爆、もしくは自縛です。
 松本さんみたいな人が、成功者は強い男、性豪、男のあこがれという古いイメージをいまだに世間にまき散らし、崇拝の対象になってることで、その風潮に逆らう意見をいえない優しい男が生きづらさを感じるわけですよね。
 そんななか、今回の松本さんの行為についても、容認しないと弱い男とか、フェミニストの味方と思われて軽蔑されてしまうのではないかと脅えた人たちが、虚勢を張って擁護派への同調論を唱えてるだけではないか、って思えてしかたがないんですけどねえ。
 若いころの松本さんは、どちらかというと細身でやさ男っぽいイメージでした。カツアゲの被害者になりそうな弱い人がお笑い界の権威をなぎ倒して天下を取ったから、カリスマになれたのです。
 それがいつのまにかマッチョになったとき、三島由紀夫かよ、と私は危ういものを感じましたけどね。三島ももともとは男臭さの薄い人だったのに、なぜか強さにあこがれて自分を鍛え、とんでもない結末へ突き進んでしまったわけで。
 松本さんもマッチョになる頃からおかしくなったのではないですか。自分に逆らえない後輩に命じて集めさせた素人女性を支配して喜ぶマッチョを男らしさだと思っていたのなら、とんでもないカン違いです。
 極めつきが先日のツイッターコメント。被害者のことも後輩のことも、なんだか他人事です。「後輩たちが巻き込まれ」って、巻き込んだのは松本さんですよ。せめて、全責任は自分にあるから後輩のことは責めないでくれ、くらいの男気を見せれば世間の評価も変わったんじゃないですか。そういうふうにあえて責任を引き受ける覚悟を持たねばならないから、男はつらいよ、となるはずなのですが。(もちろんこれも、男だけが責任を負うべきという思いこみだけど。)
 しかしいまの松本さんは、自分の保身しか頭にない無責任男です。擁護派が見ている世界には自分と松本さんしかいないといいましたけど、松本さんが見ている世界にはもはや松本さんしかいないようです。松本さんのカリスマメッキは、無惨に剥がれ落ちるばかりです。

 まあ、私が何をいっても、意固地になってしまった松本擁護派が耳を貸すことはないでしょう。
 なので私は、迷っている人たちに向けてアドバイスします。「松本さんにあこがれるのをやめましょう」。
 自分の弱さにコンプレックスを持つ人たちがどんなにがんばっても、松本さんにはなれません。松本さんのような強者にあこがれて、松本さんを擁護しても、あなたがたが救われることはないし、柄にもない虚勢を張ることで、かえってつらくなるだけです。もちろん、性被害を告発した女性たちを敵視したり、存在を否定したりして溜飲を下げるのは人間として最低の行為です。大切なのは男らしさでも女らしさでもなく、人間らしさです。
[ 2024/03/31 20:30 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告