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イタリアン大学白熱教室

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。先日、11月24日のブログでは、飛行機内での赤ちゃんの泣き声論争について私見を披露しました。本日はその続きというか補足。24日の文章をお読みでないかたは、先にそちらをよんでからどうぞ。

 まずは、飛行機や電車で赤ちゃんが泣き出した場面に遭遇した場合、私自身がどう反応するのか、はっきりさせておきましょう(といっても飛行機で遭遇した経験はありません。電車内のみです)。私は、ほとんど気にならないのです。赤ん坊が泣いても、うるさいとは思わないから当然、親に注意したり苦情をいったりしたこともありません。
 だったらなぜ、「赤ん坊が泣いても周囲はガマンすべきだ」とする意見に賛成せず、それどころか、そういう意見をエセヒューマニズムなどと批判するのか?
 彼らを批判する理由はふたつ。ひとつは、彼らが「寛容さ」とはなにかをわかっていないから。もうひとつは、極論を他人に強制するだけでは、なにも解決しないから。

 現に、赤ん坊の泣き声を苦痛だと感じる人はいるのです。賛成反対にかかわらず、その事実は認めねばなりません。自分が平気だからといって、苦痛を感じてる人たちの存在を無視し、ガマンを強要するような「不寛容」で「独善的」な人たちに、賛同する気にはなれません。
 笑いのツボは人それぞれだといわれます。あるお笑い芸人のギャグで笑う人もいれば、あんなのどこがおもしろいんだという人もいます。そのどちらの反応が正しいか決めて統一しよう、なんて議論にはなりません。
 怒りのツボも悲しみのツボも苦しみのツボも、人それぞれちがって当然なのに、どういうわけか、笑い以外の感情のツボに関しては、人それぞれであることを許せない人が、けっこういらっしゃる。で、そういう人たちは、自分と異なるツボで怒る他人に対して、ワガママいうな! ガマンしろ! そんなことで怒るな! 私と感情のツボを同じにしなさい! と強要するのです。
「赤ちゃんは泣くものですよ。だからそれを不快に感じても怒るべきではないし、怒る人はどうかと思いますよねえ」
「なんだか、日本人からだんだん寛容さが失われているような気がしてなりません」
 テレビのワイドショーやニュースで、コメンテーターやキャスターがこんなやりとりで嘆いていそうですが、こういう一見、人情味にあふれた発言をする人こそが、もっとも不寛容な人なのです。しかも彼らにその自覚がないことが、よけいに気持ち悪い。
 私、パオロは、赤ん坊の泣き声が苦痛ではありません。でもそれは私個人の感じかたにすぎません。自分が平気だから他人にも平気であれと強要するのは、まぎれもない不寛容です。本当に寛容な人なら、頭ごなしに否定せず、怒る人の気持ちや理由も察してあげようとするはずです。

 赤ん坊の泣き声を耳にしても平気でなにもいわない私は、「やさしい」のでしょうか。「寛容」なのでしょうか。いいえ。それは私の「冷たさ」です。私は自分のなかにあるその一面に気づいているからこそ、赤ん坊と親を一方的に擁護できないし、クレームをつける人を批判できないんです。
 赤ん坊が泣くのは、周囲のオトナを不快にさせて、自分が抱える身体的・精神的不満に気づかせ、不満の要素を取り除いてもらいたいからです。
 見かたを変えて、赤ん坊の立場になってみましょうか。その子の目には、必死に泣いて送ってるサインを耳にしても平気で無視できる私は「冷たい人」と映ることでしょう。
 逆に、赤ん坊の泣き声を聞きつけ、不快に感じて、うるさいから出ていけとクレームをつけてきた人は、赤ん坊にとっては待ちかねた援軍なのです。だって、赤ん坊はその機内や車内にいるのが苦痛で、まさに、出ていきたいと望み、泣いて訴えているんです。クレームをつけてきた人は、その望みを叶えてくれようとしてるのですよ!
 ああ、なんたる皮肉でございましょう。じつはクレーマーがだれよりも赤ん坊の気持ちを代弁しているのにもかかわらず、周囲の善意のヒューマニストたちは、「赤ちゃんが泣くのはあたりまえだ! クレーマーのおまえのほうこそ、出ていけ!」と赤ん坊の希望の糸を断ち切って、親の都合だけに味方して、おのれの寛容さに酔いしれるのです。

「赤ん坊は泣くものです。だから周囲の人はガマンしなさい」
 じつはこれ、かなりの極論です。「夜は暗いものです。だから照明器具を使うのはガマンしなさい」といわれて、すんなり従えます? あるいは「親はこどもが泣かないようにするものです」といわれたら?
 意見が対立するとき、極論をたてにとって一方だけにガマンを強いる解決法は、はなはだしく不公平です。ただし、べつの極論とセットにして公平にする手もあります。交換条件ですね。オレはこれをガマンするから、おまえはそれをガマンしろ、と。私からひとつ、交換条件による極論的解決法を提案してみましょうか。
「公共の場で赤ん坊が泣いても、周囲は決して文句をいってはいけない。その代わり、言葉がわかるようになる3、4歳以上のこどもが公共の場で大騒ぎしたり走り回ったりした場合、周囲の人間はその子と親を強制的に退場させることができる。親は決して文句をいってはいけない」
 どうです。かなりの極論的解決法でしょ。ひくでしょ。でもこれ、けっこう公平ではあると思います。こどもの親と周囲の他人、両者がガマンしあうわけですし、こどものしつけをきちんとするように親を誘導する効果も期待できますから、案外、賛同する人も多いかもしれません。
 とはいえ、飛行機が飛んでる最中に強制的に退場させるのは無理があります。極論でなく、親と周囲、両者に配慮した解決法となるとやはり、飛行機や電車では、赤ちゃん連れの親の専用席や専用車両を作るというのがもっとも現実的でしょう。このアイデアは以前からあるし希望者も少なくないのに、航空会社や鉄道会社はあまり真剣に検討せず、いまだに乗客のガマンに甘えているのが残念です。
 とくに飛行機はほぼ事前予約制ですから、赤ちゃん連れの席と、赤ちゃん禁止の席を、一番前と一番後ろみたいに設定しておけば、予約時に指定できます。これで完全に泣き声を遮断できるわけではないけれど、少なくとも、距離はおけますから、赤ん坊の泣き声に耐えられない人にもある程度は配慮できるはずです(JALには赤ちゃん優先席はあるようですが、赤ちゃん禁止席も設けないと意味がない)
 不満や不便をどうすれば解消できるか、それを考えることで人類は進歩してきました。これまで何度もいいましたけど、ガマンでなにかが解決したためしがないんです。ガマンとは、改善の努力を放棄し、問題を先送りするだけの行為です。


追記

 誤解のないよう、いっておきますが、飛行機で泣く赤ん坊は二度と乗せるべきではないとする先日の意見を曲げたわけではありません。それは原則論として有効だと思ってます。ただ一方で、泣かない子なら、本人が苦痛でないのだから、乗せてもかまわないと考えてます。乗せてみなければわからない以上は、赤ちゃんの飛行機への搭乗を全面禁止するという極論は非現実的です。乗せる前に赤ちゃんをつねってみて、泣きやすい子かどうか検査するってわけにもいかんでしょ。
 そうなると現実的な対応としては、赤ん坊が泣いた場合に、不快に感じる乗客の不快感をできるかぎり減らす努力を、航空会社がしなければいけません。そのための有力なアイデアのひとつとして、赤ちゃん優先席と禁止席を最大限離れた場所に設定すれば、赤ん坊の親も気兼ねせずに済むし、赤ん坊が嫌いな人も少しは気が楽になるのではないか、と提案しているのです。
[ 2012/12/03 22:40 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

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パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

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続・反社会学講座(文庫)

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反社会学の不埒な研究報告