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ひと声掛けるべきか、掛けぬべきか

 こんにちは。ちかごろはもっぱら日本酒のパオロ・マッツァリーノです。
 先日JRを利用しましたら、駅のホームでこんな感じのアナウンスが流れてました。
「ただいまJRでは、お身体(からだ)の不自由なかたにひと声掛けよう運動を行っております。お身体の不自由なかたが困ってらしたら、周囲のかたが、どうされましたか、とひと声お掛けになっていただけるよう、ご協力をお願いします」
 困っている人に手を貸すことに、やぶさかではありません。ただ、ふと疑問がよぎりました。身体の不自由な人たちは、本当に声を掛けられることを望んでいるのでしょうか?
 というのは、以前ショッピングセンターで、こんな様子を目撃したからです。私の前、何メートルか先を、脚の不自由な青年が歩いてました。前腕から固定するような金属製の杖を両腕につけているので、両脚もしくは下半身に障害があるのだなとわかります。
 その青年が、下りエスカレーターに乗ろうとしたのを見て、私はえっ、大丈夫なのか、と思ったんです。彼はタイミングをみはからうようにたたずんでます。それこそ、ひと声掛けようとしたところ、たまたま彼のすぐ後ろにいた初老の男性が先に、手伝いましょうか、と声を掛けました。
 しかし彼はそれになにも答えず、無言でエスカレーターに乗りました。降りるときもやはり時間をかけてタイミングを見て自力で降り、歩いて行きました。べつに彼は無謀なチャレンジをしてたわけではなく、これまで何十回、何百回と練習して独力でエスカレーターを利用できる自信があったのでしょう。
 しかし、こう思う人もいるはずです。その青年が自力でエスカレーターに乗れることはわかった。けど、せっかく初老の男性が親切に声を掛けてくれたのだから、けっこうです、ありがとう、くらいのことを、ひとこというべきじゃなかったのか、と。
 それは正論です。私もその場では正直、ちょっと無愛想な態度だなと思いました(しゃべるのも不自由だったら話はべつですが)。でもよくよく考えると、彼の態度も理解できる気がしてきたんです。
 われわれ周囲の他人からすると、そういう場面に遭遇するのはせいぜい年に数回とかしかないわけです。だからそのたびに声を掛けたとしても、いばるほどの親切というわけでもありません。普通の行動です。
 でも彼からしたら、毎回、毎日のことなんですよね。彼はちょっと時間さえかければ、誰の手も借りずにエスカレーターを利用できます。なのに、周囲の人はそれを知るよしもない。エスカレーターの前でタイミングをはかっていると、彼が困って助けを求めているかのように見えてしまう。そのたびに、親切な人に手伝おうかと声をかけられ、けっこうですと答えてたとしたら? あるとき、返事をするのが面倒くさくなってしまったのだとしても、不思議はありません。
 しかも冷静に思い返してみると、彼がエスカレーターの乗り降りにかけた時間はせいぜい10数秒といったところです。周囲の者が彼に手を貸せば、スムーズに乗り降りができ、その10数秒の時間を節約できます。エスカレーター利用者の流れを止めることもありません(彼は片側に寄って乗っていたので、急ぐ人は彼の横をすり抜けていくこともできたはずですが)
 でもその10数秒の効率と引き替えに、彼の自尊心は失われます。誰だって自分の力でできることは自分でしたい。人の世話になどなりたくない。それが自尊心です。少なくともこのケースでは、彼は声を掛けられないほうが、ほっとかれるほうが、うれしいのではなかろうかと。

 といっても、もちろん状況によって事情は変わってきます。なかには、見た目には健康そうなのに、歩いたり立ったりするのが非常にツラいという人もいるわけで、そういう人は手を貸しましょうかと声をかけてほしいと思ってるのかもしれません。だからといって、困ってる演技をするのもヘンな話です。
 周囲の他人には、そのあたりをどう見極めたらいいのか、まったくわかりません。
 となると、「周囲の人のほうから身体の不自由な人に、お困りですかと声を掛けましょう」って運動がそもそもまちがってるのかもしれません。助けを求めるかどうかの主導権は、困っている人に渡せばいい。
 ですから、どちらかというと「お身体の不自由なみなさん、手助けを必要とするときは、遠慮なく、周囲の人に声を掛けてください。図々しいだろうかなんて心配は無用です。頼まれた人は可能な限り手を貸してあげてください。それ以外はほっといてください」という運動のほうがいいんじゃないでしょうか。ひと声掛けよう運動でなく、気軽にひと声掛けてくれ運動。
 身体が不自由かどうかにかかわらず、われわれみんな、他人にちょっとしたことを頼むことすら、異常に忌避しすぎてないですか。年寄りに席を譲りましょうというけれど、年寄りのほうから席を譲ってくれと頼んでも全然かまわないじゃない。それって図々しいことですかね。道徳的にいけないことなんですかね。命令してるわけじゃなく、交渉してるだけです。相手には拒否する権利もあるんだから、あまりにも無礼な要求だったら拒否すればいいだけのこと。
 謙譲の美徳なんて慣習の副作用で、社会全体がコミュニケーション不全に陥ってる気がしてなりません。もっと図々しく、他人と関わってもいいんじゃないの?
[ 2013/02/11 14:30 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

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思考の憑きもの

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会社苦いかしょっぱいか

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